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勝沼宿(近世)


 江戸期の甲州街道の宿場名。山梨郡のうち。勝沼村地内に宿場を形成。元和4年に宿として名乗ったという。「甲州道中宿村大概帳」によれば,宿高は1,198石余で,地子免許はなく,六尺給米・御蔵前入用は免除された。江戸への里程は31里26町,近隣の宿場へは駒飼宿へ1里21町,鶴瀬宿へ1里3町,栗原宿へ31町36間,宿往還は柏尾村境から等々力村境まで長さ16町26間,宿内の町並みは東西12町,天保14年の宿内人別786(男394・女392),宿内家数192,本陣は字上町に1軒あり,建坪87坪,脇本陣は字上町と字本町に各1軒あり,建坪は上町のが37坪,本町のが87坪で,本陣・脇本陣のいずれも門構・玄関付き。同年の旅籠屋は23軒あり,その規模別内訳は大5軒・中7軒・小11軒。宿建人馬は25人・25疋,うち5人・5疋は囲人馬,人馬継立問屋場は字中町に1か所あり,問屋1人・年寄5人・馬指1人がおり,人馬継立は鶴瀬宿へは毎月1~20日,駒飼宿へは21日~晦日,栗原宿へは1日~晦日の期間に行った。正徳元年に定められた駄賃・人足賃は,駒飼宿まで荷物1駄88文・乗掛荷人共88文・軽尻馬1疋58文・人足1人44文,鶴瀬宿まで荷物1駄62文・乗掛荷人共62文・軽尻馬1疋42文・人足1人31文,栗原宿まで荷物1駄40文・乗掛荷人共40文・軽尻馬1疋26文・人足1人19文。なお,天保9年には,同10年から10年間はこの駄賃・人足賃の1割5分増しとすることが決められた。宿内の木賃銭は主人1人35文・召仕1人17文・馬1疋35文。高札場は中町に1か所ある。郷蔵はなかったが,貯穀は石和代官所陣屋に詰めてあった。当宿から栗原宿までの往還には,等々力村(この村の往還の長さ9町48間,うち家居は6町ほどで,ほかは野間),上栗原村(この村の往還の長さ6町28間,うち家居は4町ほどで,ほかは野間)があるが,一里塚や立場,並木はなかった。当宿の両側には家並みが続くが,裏は田畑と林で,耕地は田より畑が多かった。用水は日川・深沢川・田草川より引き取り,その流末は等々力村・小佐手川の用水となって重【おも】川へ落ちる。飲み水は主に川水を用いるが,掘井も少々は利用した。農業は五穀のほかにその時々の野菜を作り,農間に男は山稼ぎを行い,女は木綿・糸作り,絹・紬織りを行い,また夏のうちは養蚕も行った。旅籠屋のほかに食物を商う茶店もあり,その他の諸商人もおり,毎月2・7の日には市が立った。当宿の産物として梨・柿・葡萄があり,いずれも江戸へ売り出した。米の津出しも行われ,石和宿河岸へ2里半,同河岸より江戸へは川路・海上とも110里の里程であった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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