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神代郷(中世)


 鎌倉期に見える郷名。水内【みのち】郡太田荘のうち。嘉禄3年6月18日の島津忠久譲状案に「信乃国太田庄内 惣政所 神代郷」と見え,当郷を子の忠時に譲り,同年10月10日鎌倉幕府から安堵を得た(島津家文書/信史4)。文永4年12月3日忠時は一期分として当郷を妻に譲った。その後,当郷は島津久経を経て弘安4年4月16日子久長に譲られ,文保元年10月22日久長から嫡子宗久に譲られた(同前)。南北朝期に入り,暦応3年11月21日島津宗久は足利直義から当郷の地頭職を安堵されており(島津家文書/信史5),鎌倉期から南北朝期にかけて,当郷は島津氏嫡流に相伝された。この間,久長の代に当郷の腰中村・中尾村などをめぐり越後彦三郎政国・島津忠時女子尼忍覚・伊達念性女子尼妙海と相論があったが,いずれも久長の勝訴となっている(同前/同前4)。また,嘉元3年10月に領家年貢は神代郷20貫文・中尾村12貫文であったが,同年11月薄葉景光が当郷の代官職に補せられ,島津久長に送った請文では神代郷と中尾村の領家年貢は29貫500文に減額されている(同前)。嘉暦4年3月目の鎌倉幕府下知状案に「□(右)頭,大田庄内石村南方・津野・神代島津上総入道并大隅入道」と見え,当郷などは諏訪社上社五月会御射山頭役の12番右頭を命ぜられている(守矢文書/信史5)。当郷の中には腰中村・中尾村・荒居・上山・かはつら・ひるさはの地名があり,このうち中尾村は江戸期に中尾村となり,荒居は現在の豊野町豊野字荒古に,上山は豊野町石字上ノ山に比定される。下って戦国期には村名で見え,天正8年9月3日関繁国が「神代村出雲領壱貫五百文之所」などを両祝へ寄進している(太田八幡神社文書/同前14)。天正12年9月15日にも繁国が神代村出雲宮1貫500文の地を左衛門大夫に寄進している(太田文書/同前補遺上)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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