五郎兵衛新田村(近世)

江戸期~明治22年の村名。佐久郡のうち。はじめ八幡原五郎兵衛新田(小諸藩年貢割付状),あるいは矢島原新田(小諸藩開発許可状)と称した。寛文4年開発人五郎兵衛の名をとって五郎兵衛新田村とした。五郎兵衛の父祖は上野国南牧郷砥沢を本拠とする戦国郷士市川氏といわれ,かつて武田信玄に仕えたが,徳川家康の関東移封後,文禄2年家康の朱印状を得て元和年間佐久郡に入り,三河田新田・市村新田の開発に成功した(市川中興家譜)。次いで矢島村の原野であった当村の開発に着手し,はじめ千曲川の水を引こうとしたが大きな河川や古い用水路と交差するので断念し苦心踏査のすえ,蓼科山中の湧泉を源とする鹿曲川を春日村地先の松の木窪から引水することにした。寛永3年開発許可状が小諸藩主松平因幡守忠憲(憲良)の老中から改めて下付され,寛永10年藩の検地を受けた。同19年佐久郡内3か所の用水開削・新田開発の功により150石の知行地を与えられた(市川家文書)。五郎兵衛は寛文6年94歳で当地に没したが,生前の寛文4年村人は正式に五郎兵衛の名を付けて村名とした。はじめ小諸藩領,正保4年幕府領,慶安元年小諸藩預り地,寛文元年甲府藩領,元禄14年幕府領,寛保3年松本藩預り地,天明5年からは幕府領。村高は,寛永10年の検地帳に439石余,「元禄郷帳」439石余,「延享高書」に五郎兵衛新田として688石余,「天保郷帳」874石余,「旧高旧領」878石余うち長念寺除地18石余・市川五郎兵衛除地153石余。高の増加は,正保4年までに新々田高147石余,寛文9年までに新田改高59石余,元禄6年までに45石余。年貢は,当初は村高439石余の毛付高の3割,新々田高147石余の毛付高の1割2分,改新田高59石余の毛付高の9分5厘の割で賦課された。前期の幕府領時は3分の1が米納,3分の2が金納であった。年貢米は村負担で軽井沢まで運び,同所から上野倉賀野までの13里余は馬で運搬,そこから船で江戸へ送り届けた。これを廻米と称し,甲府藩領の頃から江戸送りが多かったという。享保4年からすべて代金納となり,同10年からは定免制になった。また,延宝2年に林小物成山役銭,享保4年からは高掛三役などを賦課された。元禄7年~享保3年までは八幡宿と塩名田宿の大助郷を勤めたが,用水路役儀難渋を訴えて以降,延享3年まで29年間助郷役を免除された。これは寛永11年の市川五郎兵衛宛諸役免許状(五郎兵衛記念館蔵)によって,開削以来長い用水路を抱えていることにより諸役免除の証文が下付されていたが,元禄年間からは用水修理などをすべて村負担で行うことなど難渋していたため,またこの証文下付を強調したためという。延享3年の助郷改編後も,村高に比して勤高は軽減されている。ほかに千曲川往還橋の架替役も当初は免除されていたが,正徳4年から「古高半役」で220石に入用人足を課せられ,のち軽減された。家数・人数などは村明細帳(同前)によれば,寛文11年73軒・307人,馬55,延宝4年62軒・272人,元禄14年121軒・441人,馬45,文化11年191軒・814人,馬12,天保15年150軒・730人,馬9,慶応4年158軒・822人となっている。五郎兵衛新田堰は,取水口から分水枡まで延長約5里うち隧道500間・岩切込700間・掛樋30間・築堰600間・石積18か所などの工事がなされた水路で,水田灌漑のほか飲料水にも使用され村の生活用水としても重要であった。水路に沿って上原・中原・下原の集落があり,上原に盤台を設け,水幅4尺2寸の分流は下原方面へ,水幅1尺5寸の分流は上原・中原・御馬寄【みまよせ】耕地へと流れていた。慶安元年には相浜村へ水幅8寸の分水を許している。取水口から途中9か村を貫流する長い用水なので,幕府は4か所に制札を立てて用水を保護し,大破の時は幕府の負担で御普請が行われた。春の用水浚渫をはじめ用水の保全などに年延べ7,000人余を必要とした。薪・刈敷は蓼科山麓の入会山から採取。米産が主で土地は粘質土壌,水もちも良く米作に適し特に良質美味の米を産した。畑作は薬用人参のほか自家用程度であった。氏神諏訪神社,開発者五郎兵衛の霊を祀る真親神社,稲荷社,神明社など十数社,浄土宗長念寺,五郎兵衛の位牌寺天台宗妙香院がある。明治元年伊那県,同3年中野県を経て,同4年長野県に所属。同12年北佐久郡に属す。明治6年右文学校設立,同10年布施川水系の村々と用水源水争論が起き,同18年まで続いた。同22年市制町村制施行による五郎兵衛新田村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7339470 |





