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高井野村(近世)


 江戸期~明治9年の村名。高井郡のうち。はじめ松代藩領,慶長15年越後高田藩領,元和2年幕府領となり,代官が当村に陣屋を置いた。同5年福島正則が当村に配流され,堀ノ内館で高井郡内2万石と越後国魚沼郡内2万5,000石を支配した。寛永元年正則病死後改易されたが,四男正利が旗本に取り立てられ,引きつづき当村に陣屋を置いて,当村ほか5か村3,000石を支配した。寛永15年幕府領,寛文元年甲府藩領,元禄16年幕府領,寛政4年石見浜田藩領,文政6年から幕府領となる。村高は,「慶長打立帳」1,789石余,元和7年の福島正則領内総村高帳(信叢11)で1,892石余,「正保書上」「元禄郷帳」ともに1,746石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに2,220石余。なお年貢割付状(高山村役場所蔵文書)では,寛永16年1,746石余,寛文10年2,025石余,元禄11年まで2,029石余,同12年以後2,060石余,安永9年2,196石余,天明6年2,213石余となっている。寛永10年から四分堰沿いに紫新田,続いて二つ石新田が開発された。この四分堰は樋沢川から引水され,六分堰(思い川)を分水する。六分堰は黒部村との境を南流したのち,西に向きを変え荒井原から堀ノ内の北を西流する。八木沢川とともに重要な灌漑用水となっている。入会山は東の紫禰萩山と牧村に23か村(のち25か村)入会山とがあった。紫禰萩山は,文化7年から隣村黒部村との間で争いとなったが,同10年幕府評定所の裁許で両村の持山を分け,秣は両村の入会と決められた。寺院は曹洞宗海福寺が下赤和に,浄土宗浄教寺が水沢に,浄土真宗正安寺が荒井原に,同宗高井寺が堀ノ内にある。神社は久保に高杜神社が鎮座。社伝によれば,祭神の高毛利神は高位県の総領の神で,「延喜式」神名帳所載の神社という。文政7年,延喜式内社について赤岩村の高杜神社と真偽を争い勝訴した。そのほか,天照大神社・八幡社・高池社・山神社など十数社があった。明治3年当村を発火点として中野一揆が起こり,高井・水内【みのち】両郡の百姓約2,000人が中野県庁を焼打ちし,県官ら2名を惨殺した。明治新政府は当村を首魁村と断定して19人,他村から9人の合計28人を斬首および絞首刑に処した。明治元年伊那県,同3年中野県,同4年長野県に所属。同9年高井村の一部となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7340097