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南郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。水内【みのち】郡太田荘のうち。石村南郷とも見える。石村郷の南に開発された郷。嘉禄3年10月10日の将軍家下文に「信濃国太田庄内小島・神代・石村南・津乃〈已上四箇郷〉地頭職事」と見え,鎌倉幕府は当郷などの地頭職を島津忠時に安堵している(島津家文書/信史4)。当郷は太田荘の一郷で,承久3年5月8日島津忠久に宛行われ,忠久から忠時に譲られ,文永4年12月3日忠時から大炊助に譲られた(同前)。太田荘相伝系図によると,当郷は大炊助から忠義嫡系の孫(久経の子)忠宗に伝えられ(同前),文保2年3月15日忠宗から嫡子貞久に(島津家文書/信史5),元徳3年8月9日貞久から嫡子宗久に譲渡された(同前)。南北朝期に入り,宗久が父貞久に先立って死に,しかも子がなかったため,延文元年8月6日当郷などは貞久に戻されて足利義詮から安堵を得た(島津家文書/信史6)。さらに当郷は貞治2年4月10日貞久から師久に,同6年3月5日師久から嫡子伊久に譲られた(同前)。しかし,この譲渡は幕府の安堵が得られず,応安7年6月伊久の代官本田泰光は九州探題今川貞世に幕府への所領安堵の吹挙を申請している(同前)。太田荘は暦応2年7月近衛基嗣からの東福寺海蔵院に寄進されたが(海蔵和尚紀年録/信史5),至徳元年11月15日の太田荘年貢納下注文に「南郷四十二貫文,二宮方へ押領」と見え,当郷の領家年貢42貫文は守護代二宮方が押領していた(海蔵院文書/同前7)。諏訪御符礼之古書によれば,当郷は享徳4年から長享2年まで五月会・花会を8回にわたり御符礼・御教書礼・頭役を負担している(信叢2)。戦国期には,元亀元年9月朔日武田信玄が南郷のうち11貫500文などを飯縄社に寄進した(仁科文書/信史13)。本能寺の変の直後,天正10年6月18日上杉景勝は上野新三郎に「本領并南郷」を宛行い(別本歴代古案/同前15),同年7月13日景勝は長沼城主島津忠直に「一,参百五拾俵 南郷」を宛行い(島津文書/新潟県史資料編5),当郷は再び島津氏領となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7341715