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宇刈郷(中世)


 南北朝期から見える郷名。遠江【とおとうみ】国周智【すち】郡のうち。元弘3年から建武2年の間に作成されたといわれる足利尊氏・同直義所領目録(比志島文書/神奈川県史資料編3)に「同(遠江)国宇狩郷 同(大仏維貞)」とあるのが初見。当郷は鎌倉期は大仏【おさらぎ】(北条)維貞の所領であり,北条氏の滅亡とともに没官され足利氏の所領となった。南北朝期の作成で熊野山新宮の造営料所となった遠江国衙領を書き上げた遠江国国衙領注文(熊野速玉大社古文書古記録)に「宇苅郷 参百参拾石六斗五升九合」と見え,当郷が当時国衙領であったことが知られる。室町期の寛正6年12月日付の北野神社所領注文では松梅院不知行分として当郷の名が見え,北野社領に入っていたことが知られる。さらに文明元年5月日の北野神社所領注文には「遠江国宇苅郷事 自永享年中三条殿御知行」と見え,不知行になったのは永享年中で以後三条殿の知行地となっていたようである(北野神社引付)。応仁2年閏10月11日には室町幕府は天野安芸入道に対し,勝間田之長に宇刈郷を引渡すようにとの室町幕府管領奉書を発給しているが(天野文書/県史料4),それによると本領として之長に還補された当郷が三条中納言の代官と号する山内駿河守なる者に押領されている。16世紀に入り,今川氏の遠江支配が進む中で,大永4年8月26日の今川家年寄連署状(尾上文書/県史料4)によると,この年当郷において今川氏の検地が行われている。また天文21年3月24日の今川義元判物にも「去年惣郷中分検地」とあり,義元の惣郷検地が施行されている(西楽寺文書/県史料4)。なお,当郷内の極楽寺(現袋井市大字春岡)は天文13年・天文19年・永禄4年と今川義元・氏真らによって「山屋敷田畠以下并門前参間」が不入として棟別諸役を免ぜられている(極楽寺文書/県史料4)。永禄11年暮れ,武田信玄に駿府を追われた今川氏真は掛川城に入るが,遠江に進攻した徳川家康軍に包囲される。永禄12年2月24日の今川氏真判物は天野景員の軍忠を賞して当郷を安堵しているが(天野文書/大日料10-1),それはまったくの空手形であった。今川氏の没落後は遠江は徳川と武田両氏の争奪の地となる。元亀3年の三方ケ原の合戦で一時家康は窮地に陥るが,以後着実に武田氏の勢力を後退させていく。天正2年5月22日の徳川家康判物写(浅羽本系図/家康文書上)によれば,家康は匂坂牛之助が高天神(現大東町)の戦いで危険を冒し,使者として出入したことを賞して当郷内の100貫文の地を充行っている。天正18年12月28日の豊臣秀吉寺領寄附朱印状(西楽寺文書/県史料4)では「一,九拾石 周智郡下宇苅郷 一,八拾石 同上宇苅郷」と見え,この頃上・下に二分されたことが知られる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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