掛川宿(近世)

江戸期~明治22年の宿名。佐野郡のうち。掛川城の城下町でもあり,現在地内に室町期の掛川古城跡,戦国・江戸期の掛川城跡が残る。はじめ山内氏領,のち掛川藩領。村高は,「元禄高帳」「天保郷帳」には見えず,「旧高旧領」では142石余。江戸初期の掛川城主山内一豊により城下町の整備が進められ,慶長6年松平定勝が城主の時宿駅に指定された。逆川左岸を東西に通る東海道に沿って宿場町を,逆川右岸の本丸山を中心とする掛川城の東西に武家町を形成。東海道五十三次の1つで,東の日坂【につさか】宿へ1里29町,西の袋井宿へ2里16町。宿内町並みは東西8町。天保14年の家数960・人数3,443。本陣は連尺町・中町に各1軒,旅籠屋は30軒。地子免許地3万5,445坪。問屋場は中町に1か所。宿役人は問屋1・吟味役3・帳附4・馬指4・人足方3。常備人馬は100人・100疋,うち定囲い人馬は5人・5疋,臨時御用囲い人馬は25人・15疋。慶長6年仁藤町・中町・西町が伝馬町に指定された。享保3年塩町・木町・肴町・連尺町が新伝馬町として,新町・研屋町・紺屋町・瓦町が新人足役町として追加指定された。仁藤町に高札場があった。正徳元年の定では,駄賃・人足賃銭は日坂宿まで荷物1駄82文,乗掛荷人とも82文,軽尻馬1疋53文,人足1人42文。袋井宿までは荷物1駄112文,乗掛荷人とも112文,軽尻馬1疋70文,人足1人55文。天保12年駄賃・人足賃銭は約5割増となる(東海道宿村大概帳)。助郷は享保10年11月,定助郷・大助郷の別をやめ,佐野郡37か村・城東郡9か村の46か村,高1万6,771石となった(掛川宿助郷帳/掛川市史史料集)。宿内は新・木・仁藤・連尺・中・西・瓦・塩・肴・紺屋・研屋・下俣・十九首【じゆうくしゆ】の13町に分かれ,東海道に沿う表町とその裏町および横町からなっていた。武家町は逆川右岸,城の東西に位置する。東側は東御足軽町・歩行町・鷹匠町・餌指町・中間町などがあり,西側は大西御足軽町があった。明治初年には城の周辺を御屋敷町,その東側を東士族地,西側を西士族地と称した(図録掛川城概説)。番所は2か所あり,東番所は木町と新町との境,西番所は十王町と西町の境にあった。宿内では城北の諸山に自生する葛の繊維で葛布を織る者が多く,葛布は武士の裃や袴などに用いられた。享和3年の国学者・漢学者・歌人・俳人・書家・画家などの文化人は63名(東海道人物志)。安政の大地震では宿内が全焼し,死者150人を出した(続地震雑纂)。寺院は浄土真宗円満寺・同宗了源寺・曹洞宗徳雲寺・同宗蔵福寺・同宗東伝寺・天台宗竜華院。竜華院は明暦2年城主北条氏重が大猷院殿(徳川家光)の神牌を得て建立した廟で,灯明料150石が寄進された。明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属。明治2年静岡藩の掛川奉行所が設置され,同2年版籍奉還後郡政役所,翌3年郡方役所と改称された。明治6年掛川学校創設。同12年佐野・城東両郡役所を設置。同年県立第四病院,掛川区裁判所が開設された。同13年県立掛川中学校開校。明治22年掛川町の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7348921 |