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賀嶋荘(中世)


 鎌倉期から見える荘園名。駿河国富士郡のうち。文永5年3月23日の北条時宗下文案に「下 駿河国賀嶋庄 三社別当職事,僧慈遍」とあるのが初見(北山本門寺文書/県史料2)。北条時宗から僧慈遍が当荘内の三社別当職に任じられているが,当荘は得宗領であったようで,荘内の実相寺の院主・院主代は北条氏によって住僧の中から撰補せられることが慣例となっていた。ところが,文永頃新たに他所から院主・院主代が補任されるに及んで,文永5年8月,実相寺の衆徒らは51か条にわたる愁状を提出しその罷免を要求した(同前)。それによると,当時の院主・院主代は寺房舎や寺田を勝手に売却し,実相寺の堂舎を荒廃させ,その上,寺内に遊女を置いたり,殺生を好むなどの僧にあらざる行為および荘民へ種々の非法を行っていたという。弘安4年のものと推定される8月22日付の日蓮書状(日蓮聖人遺文/鎌遺14428)で,日蓮は主君・父母の命は絶対に背くべきではないが,三界を出で仏の道を進む者にとっては,一時的にその命に背くことがあっても,それは最後には父母の孝養となり,国主の祈りになると種々の経典を掲げ述べた後,「駿河国賀島荘は,殊に目前に身にあたらせ給て覚えさせ給候らん」と当荘をその実例としているが,これは実相寺の衆徒の院主・院主代の罷免要求事件を指しているとみられる。先の51か条の衆徒訴状の奥書が実相寺に残っているが,この事件は単なる院主・院主代の排斥事件ではなく,その背景には,衆徒の多くが日蓮に帰依したことがあるようで,事実この51か条の執筆は実相寺の住僧の出身で当時蒲原四十九院にあって伯耆房と呼ばれた日蓮六老の1人日興であった。また日蓮自身もかつて実相寺の経蔵にこもり,一切経7,000余巻を読破したという。日蓮ゆかりの寺でもあった。事件後,本来横河の法流であった本院も弘安年中には日蓮宗に改宗している(実相寺文書/県史料2)。下って南北朝期の文和4年2月22日の今川範氏安堵状によれば,当荘の今井郷の友永名内の田地5反が観応2年2月1日,当荘の給主より実相院に寄進されている(実相寺文書/県史料)。室町期には,当荘は雲頂院領として見え,「蔭涼軒日録」長禄4年4月20日条に「雲頂院領賀嶋庄福島修理進於地下致緩怠之事」,同書寛正6年4月14日条に「雲頂院領駿河国賀島庄有今川殿被管人違乱,仍被成御教書,可止違乱之事」などとあり,守護今川氏の被官の下地押領が相次いでいたことが知られる。同書延徳4年5月16日条を最後に荘としては史料から見えなくなる。当荘の荘域の全貌は不明であるが,実相寺のある岩本郷,今井郷は荘内であるので,現在の富士市大字今井・岩本を中心とする一帯に比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7348970