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須津荘(中世)


 鎌倉期から見える荘園名。駿河【するが】国富士郡のうち。文永6年12月8日の実相寺住僧等申状に「当(実相)寺堺絵図御下知等,為大納言阿闍梨御房依被渡置須津庄」とあるのが初見(北山本門寺文書/県史料2)。当時賀嶋荘内の実相寺の堺絵図や安堵証文類は大納言阿闍梨房が管理して須津荘内に置かれていたようである。当荘の荘園領主は不明であるが,建武元年8月の結城道忠(宗広)代惟秀申状に「当(須津)庄内須津河郷地頭職者道忠相伝所領也」とあり,荘内の須津河郷の地頭は鎌倉期より結城氏が相伝してきたものであり,建武元年8月11日の後醍醐天皇綸旨案によれば,惣荘が闕所になったのにもかかわらず,結城道忠(宗広)の戦功のために須津河郷だけは安堵され,同9月11日には代官を荘家に付すべき旨を命じた雑訴決断所牒が出されている(伊勢結城文書/福島県史7)。ところが,翌々年建武3年2月6日の後醍醐天皇綸旨案によれば,須津河郷以下4か所の本領地の替地として三河国渥美郡内野田・高足・細谷・大岩・若見・赤羽・熊・吉胡・岩崎など郷々が宗広に与えられ,結城と当荘の関係は終わる(同前)。後醍醐天皇が足利尊氏の一族の一拠点でもある三河に宗広の所領を与えたのは,同年正月の尊氏の京都から敗走を機に尊氏方の勢力の一掃をねらったためであろうか。いずれにしても,北朝の勢力下にあった駿河の所領は維持できなかったと考えられる。貞治5年3月9日の某書下によれば,当荘内の今泉郷の3分の1が厩料所に付せられているが,代官は伊達右近将監であったようで,おそらく郷の残りの地域は伊達氏の所領であった可能性が高い(駿河伊達文書/静岡市史古代中世史料)。下って戦国期の「多門坊文書」によれば,荘内には中里八幡およびその神領・供僧免などがあり,それらは聖護院に属する八幡宮の別当多門坊が代々進止し,今川・北条・武田・徳川とこの一帯の支配者がめまぐるしくかわる中で,一貫として多門坊に安堵された(県史料2)。また,永禄9年11月17日の今川氏真判物によれば,荘内の今泉郷には医王寺領の薬師免・寺中分・仏供免などがあったことが知られる(医王寺文書/県史料2)。戦国期にもこのように荘名は残ってはいるが,広域地名化しており,次第に須津とのみ呼ばれるようになる。当荘は旧須津村,すなわち現在の富士市大字中里・大坪新田・川尻・神谷【かみや】・増川・江尾【えのお】および大字今泉を中心とする一帯を含む地域に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7350779