高橋宿(中世)

鎌倉期から見える宿名。駿河【するが】国庵原【いはら】郡のうち。「玉葉」治承4年11月5日条に「去月(10月)十六日,着駿河国高橋宿」とあるのが初見。源氏追討の平維盛らの大軍が当宿に泊まっていることが知られる。「曽我物語」巻第1によれば,伊東祐親謀殺の密議が当地で行われたことが記されている。その後,「玉葉」正治2年正月29日条によれば,梶原景時一族が同月に当地で駿河武士団に殺されたことがわかり,「吾妻鏡」建保6年12月26日条にも同様の記事がみられる。嘉禎4年10月19日の六波羅下知状(山城東文書/鎌遺5315)には「梶原追討之時,依高橋合戦之忠」とあり,この時の梶原一族討滅の戦いは,のちに高橋合戦と称されたようである。その後,「御的日記」(続群23下)によれば,建武2年7月に当地で合戦が行われたことが記されるが,「梅松論」「太平記」は建武2年8月のこととしており,年月日未詳であるが南北朝期と推定される足利尊氏関東下向宿次(国立国会図書館所蔵文書/神奈川県史資料編3上)は,当地における合戦を建武2年8月14日のこととしている。また応仁2年の「経覚私要鈔」(大日料8-2)では,当宿は京都から鎌倉までの宿駅の1つに数えられている。なお,永禄11年武田信玄が駿河に侵攻した際,当地の高橋城に今川氏の家臣石川新次郎・興津主計・由比善大夫・三浦惣右衛門・矢部半五郎などが拠って防戦したが戦死したという(清水市史1)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7350990 |