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二俣郷(中世)


 南北朝期から見える郷名。遠江【とおとうみ】国豊田郡のうち。熊野山新宮の造営料所を記した南北朝期の年月日未詳遠江国国衙領注文に「二俣郷」とあるのが初見(熊野速玉大社古文書古記録)。ついで長禄2年11月6日の光明寺(現天竜市大字山東)廃鐘銘に「大日本国遠江州豊田郡二俣郷」と見える(県史料1)。文亀元年,遠江経営を進める駿河【するが】の今川氏親に対抗するため,遠江国守護斯波義寛は信濃の小笠原氏に合力を求めるが(勝山小笠原文書/信濃史料叢書12),8月12日付斯波義寛書状(同前)により,信濃国守護小笠原貞朝が義寛の求めに応じて二俣に在陣していたことがわかる。また,同じく7月6日付の斯波義雄書状(同前)により,小笠原定基も義寛に合力したことがわかるが,「宗長手記」によると「社山に左衛門佐殿在城」とあり,左衛門佐定基は二俣城の南の社山城に在陣したと推定される。そして定基は朝比奈泰によって二俣城に退けられたという。しかし,永正年間には二俣城は今川氏の手におち,定基も今川方に帰順したようで,今川氏の臣瀬名一秀の永正3年3月23日の小笠原定基宛書状(同前)に「将又我々も二俣城を取立候」とある。「風土記伝」によると,二俣城は二俣近江守昌長が文亀年間に築き,永正11年には松井宗信が入城したといわれる。たしかに永禄2年2月2日,今川氏真は当郷以下を松井左衛門佐に,翌年12月9日には二俣東西を子息の松井八郎に与えており(残篇),当地に松井氏が拠ったことがわかるが,「匂坂家譜」所収天文4年10月18日の今川氏輝判物によると天文4年頃まで当地には匂坂六郎五郎長能も知行を得ていたことがわかる。また,先の氏真判物により,当時,二俣は東西2郷に分かれていたこともうかがえる。永禄11年末,徳川家康が当国に侵入し,今川氏真を追うと,二俣城には家康の臣鵜殿氏長が入り,また松井和泉守等もこれに従っている(譜牒余録/家康文書上)。その後元亀3年頃から当郷付近は徳川・武田両氏の抗争の舞台となる。すなわち,「浜松御在城記」「三河物語」等によると,家康は二俣の城に主将中根正照・副将松平康安・青木貞治を入城させていたが,元亀3年11月19日の武田信玄書状(古今消息集5/大日料10‐10)により,遠江国に侵入した武田信玄は当城を攻めて,これを落としたことが知られる。信玄は早速当城を修築し,また12月27日には当城に関する3か条の条目を定め,三浦右馬助・小山田六左衛門尉らに在番を命じている(伊能文書元亀3年12月28日信玄書状・友野文書同年12月27日武田勝頼朱印状/信濃史料13)。しかし,天正2年2月7日の「武家事紀」所収上杉謙信書状(信濃史料14)に「家康二俣被取詰付而……」とあるように,この頃には家康も反攻に転じたため,武田勝頼は天正2年閏11月11日の朱印状(竹重文書/信濃史料14)で深山宗三に,依田信蕃らとともに二俣城を守備するよう命じている。そして,天正3年5月,勝頼を長篠の戦で破った家康は,二俣の周囲に鳥羽山・和田ケ島などの向城を築いて二俣城を攻め,依田信蕃は同年12月まで籠城,抵抗したが12月14日,ついに開城した(依田記/信濃史料14)。その後当城には家康の臣大久保忠世が入城し,天正18年8月,家康の関東転封に伴って忠世も小田原に移ったため,当城はこの月,廃城となった(城郭大系9)。ところで戦国期,当郷内には光明寺が存在し,その寺領について,天文~永禄年間,たびたび今川義元・氏真の判物が発給されている(光明寺文書/県史料4)。また同じく当郷内阿蔵には玖延寺があり,当郷内の地合わせて2町余が二俣近江守・朝比奈下野守・松井兵庫助らの寄進あるいは買得によって寺領となっていた。これらの地についても天文~永禄年間,今川氏輝・義元・氏真の寺領安堵判物を得ている(玖延寺文書/県史料5)。なお,「吾妻鏡」文治2年4月21日の条に見える,遠江国国司安田義定が鹿を射たという二俣山は当郷あたりのことと思われる。比定地は,現在の天竜市大字二俣町二俣・二俣町阿蔵・山東などを含む地域と推定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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