小野田荘(中世)

平安末期~室町期に見える荘園名。三河国宝飯【ほい】郡のうち。寿永3年4月24日の源頼朝下文案に賀茂別雷神社領の荘園として「参河国 小野田庄」とある(賀茂別雷神社文書/平遺4155)。その後,文治2年10月1日にも頼朝が同社に当荘を安堵しており(黒川本賀茂注進雑記/鎌遺182),このことは「吾妻鏡」にも見える。文永元年6月の権祝賀茂某訴状案によれば,寛治年間勅免によって賀茂社の神領となって,社役のみを勤仕していたとあり,承安4年正禰宜主保が知行権を得たこと,嘉禄元年から文暦2年の間強盗が荘民を殺傷したことなどが知られる(上賀茂神社文書/早稲田大学所蔵文書上)。また正応6年の荘々宛文では正禰宜延久が一円知行をしており,その下に公文職として右衛門村正なるものがあった(京都大学図書館所蔵文書)。「園太暦」文和2年正月18日条によれば,観応3年8月に賀茂別雷神社神主の下人右馬允男なる人物が当荘内で夜討に遭い殺害されている。その後文明12年4月に,「装束新調庄役次第」として「〈右〉小野田御庄」と見える(賀茂別雷神社文書/大日料8‐12)。小野田荘の範囲は,江戸期の八名郡中山・萩平・平野・西川・馬越・入文【いぶみ】・成沢・賀茂・井ノ島・橋尾および宝飯郡向河原の村々(八名郡誌)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7355690 |