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上伊保村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。三河国加茂郡のうち。天正3年に御岳村・市場村が合併して上伊保村一村となると伝える。慶長5年伊保藩領,寛永15年幕府領,天和元年伊保藩領,宝永2年同藩主本多氏転封に伴い遠江相良藩領,延享3年幕府領,天明2年からは旗本巨勢氏知行。村高は,天正19年の原隠岐守による太閤検地1,153石余,「寛永高附」でも1,153石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,191石余。寺院は,元和2年創建の真宗大谷派和徳寺,天和3年伊保城主本多忠晴により菩提寺として建立された黄檗宗永福寺,享保4年建立と伝えられる浄土宗了喜院,元禄6年入仏が行われた松林庵がある(保見町誌)。神社は,白鳳年間の創設と伝えられ,式内社の射穂神社がある。末社は秋葉神社・天神社・金刀比羅社など。小出柳意などによって書かれた「伊保之記録」が現存し,近世を通じて村民の生活を生き生きと描き出している。慶長5年丹羽氏が入封すると,村内の御岳本町に陣屋を置き,その周辺に家中屋敷と町人屋敷を配置して,城下町を作り,そのために25軒の百姓を徳田・横山へ移転させている。天和元年本多忠晴が伊保藩主となると,3,914坪の御館を築き,丹羽氏時代の家中屋敷で幕府領時代に町家・百姓家に転用されていたもの全部のほか,町屋敷2,3軒が接収された。その被接収者は計25軒で,丹羽家時代よりやや大規模な準城下町と呼ぶべきものが形成されている(豊田市史)。本多氏入封時は凶作の年が相次いでおり,本多氏は過去10年の平均額の年貢納入を命じたが,納めるべき年貢総量のうち500石が未進になったと伝え,翌年春には飢饉の状況となり,餓死にちかい人々を村中で調べ,領主の救いが稗50石余,塩3石余という量にのぼった(伊保之記録/豊田市史)。村内を飯田街道(中馬街道)が東西に貫き,足助【あすけ】~名古屋の中間地点にあたるため,江戸期・明治期を通じて馬・荷馬車の中継点としてにぎわった(猿投町誌)。この街道は,貞享4年に幅2間・長さ136間の区間が整備されている(伊保之記録/豊田市史)。明治初年の戸数163・人口652(保見町誌)。明治7年了喜院を教室として射穂学校が発足し,同11年校舎を新築。同年西加茂郡に所属。同17年当村に西加茂郡第7組戸長役場が置かれ,田籾・上伊保・伊保堂・殿貝津・下伊保の諸村を管轄した。同21年上伊保駐在所創設(保見町誌)。同22年伊保村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7356065