古井村(近世)

江戸期~明治9年の村名。愛知郡のうち。尾張藩領。大代官所支配。村高は,「寛文郷帳」1,278石余,「天保郷帳」1,295石余,「旧高旧領」1,429石余。「寛文覚書」によれば,本田概高413石余・反別25町余(田方14町余・畑方11町余),ほかに高1,000石・反別89町余(田方50町余・畑方38町余)が相応寺・建中寺・万松寺の寺領として諸役を免許されていた。また,家数187・人数1,051,馬49。このほか寛文8年名古屋宿伝馬100疋分の飼料として渡された畑11町余があった。なお,「徇行記」に「此村,往古ハ今ノ東瓦町東ノ外田アタリニ下古井村ト唱ヘテ一区アリシト也,然ルニ城府開ケシ以後,今ノ東田町アタリヘ民戸漸々ニ引移リシトイヘリ」と見える。元禄13年に没した尾張徳川家2世光友の墓誌にも「葬于愛智郡古井邑徳興山建中寺」とあり,当村はもと名古屋城下東部の広い地域を占めた。武家屋敷・町家が東に広がり,享保13年情妙寺前町・糸屋町など多くの町並みが城下町続きとして一部事務が町方支配に移ったことがわかる(吏事随筆)。村内には北部を中心に名古屋新田が散在する。「徇行記」によると家数198・人数868,本田概高413石余は成瀬弥九郎ら12人の給知,新田は蔵入地。雨池は蝮池・今池・松元池。南部を飯田街道が北西から南東に走り,北東部を塩付街道が通る。飯田街道の南には,戦国期に古井太郎が近村からの援兵要請を断る口実として造ったと伝えられる太郎塚(馬走塚)や茶臼塚などがあったが(塩尻),すべて古墳と考えられる。神社は式内社の高牟神社(もと古井八幡とも称した),物部神社(石神堂とも称した)。寺院は,曹洞宗光正院・善久寺,臨済宗芳珠寺(もと曹洞宗宝珠寺,延享3年改宗,翌年改号),真宗大谷派光専寺。「徇行記」には「竹木茂リテ村立大体ヨシ」とし,「此村ニテハ藺ヲ多ク作レリ」とある。明治5年字元古井に義校隆道学校(のちの千種尋常小学校)開校。同9年千種村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7356866 |