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御器所(中世)


 鎌倉期から見える地名。はじめ尾張国愛知・山田両郡,のち愛知郡のうち。南北朝期に御器所保,戦国期に御器所郷とも記された。文治6年4月19日付源頼朝注進状に造太神宮役夫工米の未納地の1つとして「尾張国 松枝保 御器所長包庄」とある(吾妻鏡文治6年4月19日条)。平氏没官領として源頼朝から一条能保の室(頼朝の妹),その子女と伝領された所領群の1つであったが(同前建久3年12月14日条),最後の六波羅探題に殉じた家臣の中に「御器所安東七郎経倫」の名が見えることから(近江国番場宿蓮華寺過去帳/群書29),鎌倉末期までに北条氏領となったと推定できる。幕府滅亡後は,大高重成が新たな領主となり,観応2年10月6日,御器所保地頭職を臨川寺三会院に寄進した(臨川寺重書案文/大日料6‐15)。この寄進は足利尊氏によって安堵されたが(臨川寺重書案文正平7年2月9日付足利尊氏寄進状案/同前6‐16),問題が生じたらしく,延文5年10月17日,将軍足利義詮の裁定によって保地頭職は重成子息重政と寺家とに二分され,三会院は「一方〈愛智御器所御方,山田御器所別給等〉」をその領とした(臨川寺重書案文/同前6‐23)。国衙領である御器所保は,「御器」を作る職人の給免田を軸に成立した保と考えられるが,尾張国の保はいくつかの郡にわたって散在することが多く,三会院が確保した御器所保が愛知郡と山田郡の2郡にまたがっていること,さらに重政の領分の存在も考えれば,この頃までは御器所もいくつかの郡に散在していたと判断できる。室町期,御器所の領主としては,貞治2年閏正月8日,「尾張国愛智郡御器所之内,壱町伍段小下地」を沙弥信慶から寄進された京都六条の若宮八幡宮や(若宮八幡宮文書/同前6‐25),「蔭涼軒日録」寛正2年9月10日条に見える恵雲院(相国寺の塔頭か)があるが,在地において勢力をふるったのは御器所城主佐久間氏であった。嘉吉元年には御器所八所大明神造営の檀那として佐久間美作守が所見し(御器所八幡宮蔵嘉吉元年11月6日付御器所八幡宮棟札銘),永禄7年12月付同社棟札銘(御器所八幡宮蔵)に見える佐久間右衛門尉信盛は,織田信長の家臣として有名である。なお,信長が弟信行を誅した際には「今度錯乱御器所近所下地」などが欠所とされており(張州雑志抄弘治4年正月27日付織田信長判物/信長文書の研究),信行派の所領もあったらしい。室町期以降は,山田郡が消滅,愛知郡御器所としてのみ登場する。天正9年3月7日付竜沢寺勧化帳写では「古井」「御器処」「川野(名)」の寺院が連記され(竜沢寺文書/福井県史資料編4),天正12年7月27日付花蔵院良集道者譲状でも「尾州こい・こきそ并西郷一円」と連続した領域として表記されている(経聞坊文書/岐阜県史史料編古代中世1)。戦国期御器所は,ある程度の集落を形成して古井・川名と接し,ほぼそのまま近世御器所村へ継承されたのであろう。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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