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高針村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。愛知郡のうち。尾張藩領。水野代官所支配。村高は,「寛文郷帳」1,675石余,「天保郷帳」1,678石余,「旧高旧領」1,612石余。「寛文覚書」によれば,本田概高1,549石余・新田38石余,反別は本田分135町余(田109町余・畑25町余),新田3町余(田2町余・畑9反余),ほかに見取新田2反余,松山194町余,御留林2町余。家数127・人数787,馬50,雨池36,井戸8。熱田【あつた】宿・鳴海宿へ大通りの時,御上洛ならびに朝鮮通信使通行の時,御茶壺御通りの時の助郷役を勤めている。「徇行記」によれば,織田遠江ら26人の給知1,355石余,ほかに教順寺領24石余,「植田山御鹿狩記事」によれば,末森山・植田山は尾張藩の控え山で,時々藩の鹿狩が催され,その度に村民が勢子として駆り出された。寺院は,真宗大谷派東勝寺,真宗高田派蓮教寺,臨済宗済松寺(はじめ瑞松寺と称し,享保3年改称)。神社は,八幡神社(のち昭和25年高牟神社と改称)があり,式内社と伝えられる。明治7年東勝寺に啓迪学校開校,のち同19年尋常小学校高針学校と改称。高針街道は中馬街道と呼ばれ,名古屋の城下町から高針―岩崎―三本木を経て,三河の足助【あすけ】,信州飯田へつながる明治中期まで,街道沿いに中馬の馬宿があった。明治22年高社村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7358523