西尾城下(近世)

江戸期の城下町名。幡豆郡のうち。西尾藩の城下。西尾城は中世以来の城郭であるが,正確な記事としては天正13年徳川家康の命によって三河一国の国普請として修増築がなされたことが知られ,同18年には城主田中吉政が三の丸を構築し,近世城郭の形態を形成した。寛永15年西尾藩主太田資宗が城下町を包含する総構えの築造を企て,正保2年太田氏に代って藩主となった井伊直之が工事を受け継ぎ,明暦3年に15年間を費やして完成した(西尾市史)。この囲郭は城下町をすべて包含して土塁・水濠(外堀)をめぐらしたもので,総構えと呼ばれる。この総構えと外部を結ぶ主要個所には追羽門・天王門・須田門・丁田門・鶴ケ崎門の五門が置かれ,番卒に守備させた。城下町の形成は,すでに天正18年の田中吉政による三の丸構築の際に本町・中町・横町・魚(肴)町・須田町などの主要通りが体裁を整えていたと伝えられるが,本格的には総構えの完成後のことであったろう。寛延元年以前に描かれた西尾城下町図によってその姿を見ると,城郭の背後(南と西)が沼沢地であった関係上,町並みは北部,すなわち大手門に面して発展した。武家屋敷地は郭内の一部(東の丸・三の丸)と城下町の外堀に沿って堀際の西部・北部・東部とに配置され,その内部に町家を包みこむ形をとっていた。城下町のうちに置かれた武家屋敷地としては馬場町・天神町・鶴ケ崎町・追羽町・百石町・裏町・桜町・矢場町・町組・東組・中組などがあり,百石町と馬場町は郭内に次ぐ中級武士の屋敷地で,町組・東組・中組は足軽屋敷であった。明和元年6万石の松平(大給【おぎゆう】松平)氏が藩主になると,それまでの2~3万石の大名の城下では家臣を収容しきれず,須田町の奥の町人平坂屋伊兵衛の所持地を差し出させて武家地とし,奥屋敷と称した。さらに外堀の外部,追羽門外にも武家屋敷地を造成し,新屋敷(追羽新屋敷)・外町ができた。なお,平坂屋伊兵衛には代替地として外堀の外部の泡原の地を免租とする特権を与え,この地は山下新屋敷と呼ばれた。町人町としては,順海町・中町・肴町・横町・天王町・瓦町・本町・須田町・塩町・会ゲ下などがあり,このうち中町・肴町・横町・天王町・本町・須田町は表6か町といわれる商業中心地であった。なお,これらの町人地にも武士が混在して住居していることもあり,また百姓屋敷も混在していた。ほかに伊文山牛頭天王宮(伊文神社)の所持地を伊文神社領,曹洞宗康全寺の所持地を康全寺領と呼んでいた。当城下は,「元禄郷帳」「天保郷帳」などの郷帳類では西尾町,寛文5年康全寺朱印状では西尾村,元禄12年水帳や安永5年西尾郷村雑書などでは西尾郷と記される。高は,慶長9年検地高,「寛永高附」ともに1,626石余,うち寺社領33石余(伊文天王領18石余・向春軒領2石余・康全寺領13石余),「元禄郷帳」1,634石余,安永5年西尾郷村雑書1,595石余,銭成297石余,「天保郷帳」1,671石余,「旧高旧領」1,962石余。町人の戸数・人口は,延享2年家数614・人数2,870,安永5年「町中并寺社領共ニ竈数」827・人数3,033,文政6年の家数786・人数2,825。主な神社は,西尾城本丸内(大手内)の御剣八幡宮,伊文町の伊文天王(伊文山牛頭天王,伊文神社),鶴ケ崎町の鶴ケ崎天満宮がある。寺院は,真言宗勝山寺(瓦町),浄土宗縁心寺(中町)・崇覚寺(順海町),真宗東派唯法寺(順海町)・聖運寺(中町)・浄賢寺(須田町),曹洞宗康全寺(満全町)・盛厳寺(馬場町),法華宗妙満寺(百石町・大給町)などがある。明治初年西尾城の城郭内にも町名が付され,本丸・二の丸・姫丸は大手内,三の丸は三之丸,東の丸・帯曲輪は東之丸,北の丸は北之丸と呼ばれるようになる。明治4年の廃藩置県により西尾藩の城下町としての機能は消滅し,城下の各町は独立した町となり,西尾の名はその総称として用いられ明治9~22年は西尾馬場町・西尾天王町などというように各町の冠称として西尾の名が存続したにすぎない。明治11年以後の旧西尾城下の地は,伊文町・和泉町・馬場町・葵町・錦城町・鶴ケ崎町・裏町・大給町・矢場町・順海町・中町・肴町・横町・天王町・瓦町・本町・須田町・塩町・会生町・満全町の20町と鶴城村とに分かれることになり,同22年市制町村制施行によりこの20町と鶴城村が合併して西尾町が成立する。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7359782 |





