紀伊国

慶長5年関ケ原の戦で西軍に味方した堀内氏善は追われ,浅野幸長が紀州藩主となり,支族浅野右近を新宮におき,知行地として牟婁郡のうち70か村・高2万6,505石を右近に与えた。うち三重県内の紀州藩領は33か村・高1万1,894石があった(済美録)。元和5年浅野氏は安芸国に転封,代わって徳川頼宣が紀州藩主となり,紀伊本国において37石余,伊勢国三領(白子・松坂・田丸)18万石余,計55万石余を領し,付家老水野重仲を新宮に置いて熊野地方を守らせた。水野氏は知行地として牟婁郡で145か村・高3万5,000石余を領し,三重県域には81か村・高1万8,534石余があった(南牟婁郡誌)。元和9年牟婁郡を口熊野・奥熊野に分け,国内に組制をしいて各組に大庄屋をおいた。三重県域は牟婁郡奥熊野に属し,紀州本藩領として長島・相賀・尾鷲・木本・北山・入鹿・本宮の7組があり,新宮水野氏知行地として有馬・尾呂志・相野谷・成川の4組と新宮北山組の一部があった。元和9年木本浦(熊野市)に奥熊野奉行所と代官所がおかれたが,寛政改革により寛政11年奉行所は廃され,代官所が郡政全般を統轄した。また奥熊野目附役所は林浦(尾鷲市)におかれたが,宝永4年10月4日の津波で役所が流失し,その業務は古座浦(和歌山県)の口熊野目附役所が一時兼帯し,宝暦4年奥熊野目附役所は口熊野へ併合された(尾鷲市史)。村数と石高は,「慶長高目録」1,075か村・37万6,562石余,「元禄郷帳」39万7,668石余,「天保郷帳」1,337か村・44万858石余,「紀伊続風土記」41万9,103石余・反別3万3,955町余(田2万555町余・畑1万3,399町余)。紀州藩は寛永13年奥熊野山林御定書を公布して山林の保護を図り,楠・栢・槻は留木とし,杉・檜・松の大木も留木として伐採を禁止した。元禄13年領内の百姓に低利の資金を貸付け生産の拡充を図るとともに,林産品・水産品に対して約2割を課税して藩財政の一部に充当した。その指導監督のため林産に御仕入方役所,水産に御口前役所を奥熊野の各地においた(南紀徳川史)。入鹿組を中心とした熊野銅山は古く大宝3年より知られており,金・銀・銅・鉛・鉄を多量に産し,また神上(熊野市)では那智黒石を産する。寛永年間より杉・檜の植林が進み,木材・薪炭は江戸・大坂に出荷した。また特産として熊野蜂蜜・蜜柑・薬草類も豊富に産した。熊野灘では捕鯨が行われ,また鰹・鰤・鮪・鰡・海老を多量に水揚げし,時に熊野珊瑚を採ることもあった(紀伊続風土記)。天正13年北山組・入鹿組の各村は,検地に反対する一揆を起こし,また慶長19年大坂方に味方した一揆が起き,それぞれ処分された。安政2年木本組を中心とした地域では村替騒動があり,また尾鷲組では米積船未着による米騒動が2回も起こった。明治2年2月奥熊野は牟婁下郡と名称をかえ,各組の大庄屋は郷長となった。明治4年7月和歌山県となるが,同年11月23日牟婁下郡のうち熊野川以東・北山川以南の地は度会県に編入され,明治9年4月18日三重県となった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7364292 |





