黒田村(古代)

平安期に見える村名。伊賀国名張郡黒田本荘のうち。黒田郷とも。黒田荘に赴いた官使・在庁官人・郡司らの一行と荘民(杣工)との武力衝突を伝える天喜元年8月26日の官宣旨案に「抑随国符之旨,同日(7月7日)夕部,相具官使山重成・紀安武并大判官代正助等,罷向件黒田村庄屋之後,出来彼村住人物部時任,相次本寺知事僧公釈」とあるのが初見で,東大寺の黒田荘経営の基地として「庄屋」が置かれていた(東大寺文書/平遺704)。もともとこの地は東大寺領板蠅杣の四至外であったが,10世紀中葉,東大寺は杣の東四至を名張川まで拡張し,焼原杣とその東南山麓に位置するこの地域を領有するにいたる(東大寺文書/平遺281・289)。このころより,杣工や公民の定住と田畠の開発が進み,11世紀に入ると,長元7年,「板蠅杣住人并工等」の臨時雑役を免除する官符が出され,杣の四至内であることが公認される。つづいて長暦2年には杣四至内の見作田6町180歩と杣工50人の臨時雑役が免除され,田畠の開発と杣工による河東の公領への出作が促進される(同前/平遺1739)。しかし,杣工らは新開田や出作公田を官省符荘内と称して所当官物を弁済せず,四至の拡大を図ったため,国衙側の反撃をうけ,武力でもって対抗した杣工(住人)と国衙との間に天喜元年・同2年と2度にわたって武力衝突が起きる(同前/平遺704・732)。さらに国司による出作田収公も敢行され,翌3年には「名張郡田堵久富」に「黒田・大屋戸両村」の作田48町7反200歩の所当官物を弁済し,東大寺封物にあてることを命じる国司庁宣が出される(百巻本東大寺文書/平遺750)。しかし,翌4年にいたり,東大寺の朝廷への働きかけが功を奏し,四至牓示を打ち直し,黒田荘(板蠅杣)を国使不入・国役免除の地とする官宣旨が出される(東南院文書/平遺787)。この結果,河西の荘田が本免田として免除されることになり(公定田数は25町余),当村は大屋戸・安部田両村とともに黒田荘(本荘)として確立する。これ以後,住人の河東の公領への出作が広範に展開するが,当村の名が史料に直接現れることは少なくなる。ただ,平安後期には黒田村をもって黒田荘をさす用法もしばしばみられる(谷森文書/平遺3965)。当村が黒田荘の中枢部に位置し,東大寺の寺領経営の根拠地であったからであろう。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7364585 |