下箕田村(近世)

江戸期~明治22年の村名。伊勢国河曲【かわわ】郡のうち。はじめ津藩領,寛文9年から久居藩領。村高は,「文禄3年高帳」1,899石余,「慶安元年郷帳」「元禄郷帳」957石余,「天保郷帳」1,013石余,「旧高旧領」992石余。「慶安元年郷帳」では田878石余・畑79石余。寛延年間の家数115・人数488,牛11(宗国史)。文久3年の記録には石薬師宿増助郷28か村のうちの1村とある。用水は鈴鹿川本流から導かれる大川井(五郷半)を利用し,上手にある寺井(六郷)との間で水論が起こり,寛文4年判決があった(新編鈴鹿市の歴史)。神社は式内久々志弥【くくしみ】神社があり,福住明神と通称され,領主の祈願所として崇拝されたようである。寺院は臨済宗東福寺派太平山光照寺があり,寺伝によればもと天台宗太平山無量寺であったが衰退し,中興の時東福寺末となる。境内には元寺無量寺より移したという観音堂がある。ほかに真宗高田派海楽山信福寺がある(神戸平原地方郷土史)。光照寺・信福寺には幕末期に寺子屋が開かれ,久々志弥神社でも教育が行われたという(同前)。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同年の戸数174(各区戸長副戸長総代名簿)。同9年の伊勢暴動の際には箕田学校が破壊され,金10円の扶助金交付を受けた(伊勢暴動顛末記)。同15年自由党の指導により,京都で酒税減額の請願を行う酒屋会議に矢田新五郎が参加(新編鈴鹿市の歴史)。同16年光照寺が全焼。同20年頃には田植は正条植が行われるようになる。同22年箕田村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7365342 |





