新町村(近世)

江戸期~明治22年の村名。伊勢国員弁郡のうち。治田新町とも称し,たんに新町ともいう。はじめ幕府領,元和2年徳川家康の孫千姫の化粧料として桑名藩領に属し(千姫が当時の桑名藩主本多忠政の長男忠刻に嫁したため),同3年本多氏は播磨国姫路へ転封するが,当村はそのまま姫路藩領となり,寛永4年幕府領,享保11年からは八田藩領。村高は,「慶安元年郷帳」107石余,「元禄郷帳」327石余,「天保郷帳」「旧高旧領」329石余。天保10年の戸数84・人数351,牛馬数20。銀・銅鉱山があり,その繁栄によって慶長6年から代官が駐在した。摂津国多田鉱山からの移住者が多く,南河内の三光谷に居住したと伝える。地内無上野【むしようの】に製錬所があり,ふきがらが残存する。はじめは銀山奉行直営,のちには町人請や村請で採掘・製錬が行われ,盛時には年間銅2万貫を出荷した。江戸期を通じて山手役が銭払いとなっており,他村のように米納は許されなかったことは鉱山町であったゆえと考えられている。鉱山が衰微しはじめた頃,岡田才兵衛政和が中心となって開田と茶の栽培に努めている。文政年間には南河内谷に石灰窯を築いた。天正11年豊臣秀次が2万5,000の兵をつれて越えた治田峠は銅を大坂へ運ぶ交通路として利用された。地内屋敷には銀山奉行の川合助左衛門の屋敷(代官屋敷)があった。山村ゆえに猪害も多く,元文5年には,1,975間の猪土居が築かれていた。神社は,寛永7年勧請した神明社と南河内の三光神社,稲荷社,銚子谷滝の銚子神社がある。寺院は真宗大谷派銀重山三光寺,法華宗本行山実成【じつちよう】寺,浄土宗鎮西派大雨山甘露寺がある。三光寺はもと三崎真観坊といい,享和元年三光寺と改称。本尊は千姫の再婚の時母の形見として持参した女尊像。実成寺は金山奉行伊丹梅軒の菩提寺として慶安元年新町谷に創建された。甘露寺は摂津国多田銀山の甘露寺分寺として建立されたもの。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同22年治田村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7365482 |