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関宿(近世)


 江戸期の宿名。鈴鹿郡のうち。慶長6年徳川家康の伝馬制により成立し,関地蔵宿ともいい,中町・木崎【こざき】村・新所村からなる。関地蔵と呼称されたのは,中世後期,地蔵院(宝蔵寺)の門前町として発達したためという(豊公遺文・家忠日記・九九五集)。はじめ亀山藩領,元和元年幕府領,寛永13年からは再び亀山藩領。高は,「文禄3年高帳」1,573石余,「元禄郷帳」1,584石余,「東海道宿村大概帳」1,750石余,「旧高旧領」2,187石余。西の追分から大和街道,東の追分からは伊勢別街道が分岐し,交通の要衝で宿場町として繁栄した。享和3年の宿内町並みの長さは15町13間で,うち木崎町分3町47間・中町分4町40間・新所町分6町46間,往還江戸より上り右17町29間・左20町47間(御分間絵図御用宿方書上帳・東海道宿村大概帳)。出役は中町が伝馬役を,新所・木崎両町が人足役を負担した(関町史)。宿の中枢を占める中町は一~六番町に分かれ,初期を除いて本陣2・脇本陣2で,一番町には原脇本陣,二番町には滝本陣・萩野脇本陣,三番町には川北・伊藤の両本陣,四番町には西尾・忠右衛門の両脇本陣が所在し,交替して就役した(同前)。寛政12年関三町絵図による旅籠屋数は,55軒のうち中町37・新所12・木崎6,享和2年宿方明細書上帳では54軒のうち大25・中17・小12,天保14年の「東海道宿村大概帳」は42軒のうち大10・中18・小14。明治初期は92軒のうち中町55・新所22・木崎15(関町郷土誌)。家数・人数は,寛文11年493軒(川北本陣絵図),元禄5年492軒(同前),享保8年545軒(御領分雑記),宝暦4年531軒で借家等を含め610軒(問屋同心控書)。延享年間526軒で中町183軒・新所168軒・木崎175軒(亀山領細記),寛政7年520軒・1,824人(問屋同心控書),享和2年533軒・1,859人(宿方明細書上帳),天保14年632軒・1,942人(東海道宿村大概帳)。助郷の村数は寛永14年5か村,元禄7年14か村,享保10年15か村(関町史)。宿建人馬は100人・100疋,天保14年における定囲は5人5疋・臨時御用囲は25人15疋(東海道宿村大概帳),享和2年宿方明細書上帳では囲人足30・囲馬25。問屋ははじめ川北・滝・伊藤の本陣家が1年交替で勤めたこともあったが,のち宿内有力の者2人をたて15日ごとの交替とした。しかし川北本陣が次第に勢力を伸ばし,元禄年間以降は同家が問屋役の地位を確立している(関町史)。寛文3年二番町から出火した大火は焼失家数105軒,文政8年の大火は四番町から出火し全焼36・半焼4(同前)。宿の馳走場は3か所で東西の追分と熊野大権現前。宿屋組合の出迎えは地蔵町と六番町で宿屋名を記した提灯を手に手代等がこの引場で旅客を出迎えた。名物は竹火縄・関こんにゃく・南禅寺豆腐。幕末以降参勤交代の廃止,鉄道の開通等によって宿場町の機能は急速に衰退,周辺地区を対象とした小規模な商工業が維持されるにとどまる。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同13年の戸数748・人口3,091。同22年関町の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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