治田御厨(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える御厨名。伊勢国員弁郡のうち。平家与党謀叛人跡と思われ地頭に畠山重忠が補任されていたが,文治3年,重忠眼代内別当真正が「員部(弁)大領家綱」所従等の宅を破却,資財を奪いとったため,「神人長」家綱の訴えるところとなり重忠は身柄を拘禁,所領は没収された。同年10月,地頭職は吉見次郎頼綱に与えられたが,同5年7月,治田御厨の農民たちは鎌倉に至り,吉見頼綱が民戸を追捕,財宝を奪取したことを訴えたため,頼朝は速やかに非法を停止することを命じている(吾妻鏡,文治3年6月29日条・同9月27日条・同10月13日条・同5年10月13日条,なお同書は沼田とするが治田の誤記)。「神鳳鈔」には内外宮領上分米各6石とある。「外宮神領目録」では3石。「神領記」には6町反別75文宛内宮分3町,2貫250文,外宮分3町と記し,享徳元年「庁宣注文」では6町2貫250文とある。「神領給人引付」に給主(度会)高雅の名が見える。下って「信雄分限帳」には「治田郷」とあり,津田利助・末松十蔵・南部武右衛門の給地が郷内にあった。また天正11年の「内宮神領本水帳」北伊勢の項には「一,八百文 長徳 はつた」とある。江戸期に入っても治田郷の呼称は残り(勢国見聞集),「三国地誌」では新貝・中山・東・貝戸・別名・麓・奥の村々を治田郷のうちとしている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7367048 |