東阿倉川(近代)

明治22年~現在の大字名。はじめ海蔵村,昭和5年からは四日市市の大字。明治22年の戸数197・人口916(町村分合取調書)。明治26年安濃津監獄署四日市分監が東阿倉川に設置された。同年四日市煉瓦製造所が発足。同30年の旱魃で海蔵川の水をめぐり末永と争議があった。明治期~大正期にかけ万古焼工場が多く設置される。昭和3年伊勢電鉄が開通し,阿倉川駅が開業する。第2次大戦後,国道1号が2倍に拡幅され,昭和30年には永久橋の新しい海蔵橋が完成する。三重交通による路線バスの営業が羽津山方面・小杉町方面に拡大された。昭和30年代後半には,石油化学工場群の進出とともに住宅地の開発も盛んとなる。戦後,三重朝鮮学校(四日市朝鮮初中級学校)・山手中学校が開校,山手中学校から昭和54年に羽津中学校が分離した。一部が,昭和37年みゆきケ丘1丁目,同39年万古町・阿倉川町・三ツ谷町,同42年三ツ谷東町となる。世帯数・人口は,昭和34年543・2,494,同40年203・852,同50年296・1,090。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7367170 |