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矢川村(中世)


 平安末期~室町期に見える村名。伊賀国名張郡周智郷のうち。矢川条とも。また箭河(川)・野河・矢河・笶河(川)とも書かれる。長久2年3月5日の藤原実遠公験紛失状案に「件名張郡周智郷字箭河公験」とあるのが初見で,実遠が父清廉から伝領した所領の1つ。四至は「限東御領杣,限南鹿高山,限西宇陀河,限北箭河」とあり,宇陀川右岸の矢川(滝川)以南の地域,すなわち現在の名張市矢川・一ノ井・長坂一帯をさしたとみられる(東大寺文書/平遺588)。実遠は住人を従者として駆使し,佃を宛て作らせたが,やがて住人は逃亡し,その経営は没落した。当初40町あった田畠も荒廃し,この地は「荒蕪藪沢荊棘之荒野」「猪鹿之立庭」に化したという(同前,内閣文庫所蔵伊賀国古文書/平遺1261)。長久4年,実遠は領主権を保留したままこの所領を禅林寺座主深観僧都に売却。領有権を手にした深観は荒野の開発を企て,永承3年国司に申請して,新開田の所当官物と四至内臨時雑役の免除を獲得した(東大寺文書/平遺653・654・658)。「箭川庄」とも呼ばれたこの所領は永承6年,醍醐僧都覚源に譲与されたが,その後の伝領関係は未詳である(東大寺文書/平遺689・691)。深観が開発に乗り出したころより,黒田荘杣工の出作が活発になり,東大寺の封戸物も便補されるが,天喜2年8月,黒田荘の四至問題で東大寺と争っていた国司は杣工の出作田を実力でもって収公した。この時没官された作田は「矢川村」では16町6反大に及び,そのうち8町4反は郡司則佐の「所領」にあてられた(佐佐木信綱氏所蔵文書/平遺781)。一方,実遠が保留していた領主権は甥の藤原信良,その妻当麻三子(実遠孫)と伝領されるが,延久6年,中村とともに薬師寺別当隆経に売却され,隆経の死後は弟藤原保房が相続した(東南院文書/平遺1098・1168)。保房が伝領した11世紀後半には,杣工らは公民を語らい,私領主の得分である加地子や雑事を対捍するようになる。この動きは執拗にくり返され,12世紀前半までたびたび加地子の弁済を命じる国司庁宣や東大寺政所下文が出されている(東大寺文書/平遺2261,内閣文庫所蔵伊賀国古文書/平遺2279)。またこのころ「矢川庄」とも呼ばれたが,永保年間には「中村庄」とともに新立荘園として停廃される。保房はこれを「当時国司猥背先例,偏依令制止領主之進退,恣宛行他人,悉収公」したと,朝廷に訴え,応徳元年官宣旨により領掌を認められた(東大寺文書/平遺1198・1210)。さらに寛治年間には大中臣宣綱から寄進をうけたと称して「金峯山先達法師原」が矢川・中村に乱入,保房との相論となるが,朝廷では父朝方が実遠から両村を買得したとする宣綱・金峯山側の主張は認められず,保房の所領として安堵される(百巻本東大寺文書/平遺1327)。しかし,この領主権をめぐる相論は保房の子ら(実誉・中子・保源)が矢川・中村を伝領した12世紀初頭に再発する。この相論は宣綱の子則綱が新たな寄進先に選んだ興福寺と杣工支配を通じて出作地域に対する領有権を主張し,保房の子らの伝領を支持した東大寺との間で争われるが,結局東大寺側の主張が認められたようである(東大寺文書/平遺1738)。なお,11世紀後半から,田畠などの所在地を示す際に,「矢川条」という条名がよく用いられるようになる(村井敬義氏本東大寺古文書/平遺1259)。保房の子らに分割して伝領されていた矢川・中村の領主権はやがて東南院僧都覚樹の手に帰し,長承2年7月,矢川・中村・夏見条の所領田畠の立券が行われた(東大寺文書/平遺2282)。この立券文によれば,所領田畠は黒田荘民の出作地である「黒田出作」と公民の耕作地である「公民作」とに分かたれ,「公民作」の分は「新庄」と称された。また「矢川条」には水田40町1反(出作27町1反240歩,公民作12町9反120歩)と畠地25町7反小(出作12町8反小,公民作12町9反)の所領が存在していたことが知られる。応保2年8月,東南院恵珍僧都は矢川・中村の領主権が院外に渡ることを恐れ,手継証文を東大寺印蔵に納めるとともに,加地子得分のうち30石を「院家卅溝供䉼」にあてるほかは東大寺の寺用に用いることと定めた(東大寺文書/平遺3227)。出作も新荘も所当官物を国衙に納める国衙領であったが(ただし出作地の場合は便補された封物分を除いた残りを国衙に納める),東大寺の支配が浸透するにともない,住人の所当官物未進・対捍が顕著になり,12世紀前半から中葉にかけて,国衙と東大寺との間で所当官物の率法(年貢率)や未進をめぐっての相論がくり返される。承安2年に至り,時の知行国主平親宗が出作・新荘の所当官物を東大寺に免除,さらに同4年には「黒田庄出作并新庄」をながく寺領となす旨の後白河院庁下文が出される(百巻本東大寺文書/平遺3617,東南院文書/平遺3666)。これをうけ,翌5年,東大寺は出作・新荘の所当官物のうち便補封物を除いた分を常住学生百口供料にあてることを決定した(東南院文書/平遺3674)。しかし,国衙側は出作・新荘の一円寺領化を認めず,以後も相論は継続される。その間にも安元2年,東大寺は出作・新荘の検注を実施した。それによれば,「矢川条」の田地は出作38町7反60歩,新荘18町190歩,合わせて56町7反250歩であった(東大寺文書/平遺3781)。鎌倉期に入っても建仁年間ころまでは国衙との相論は続くが,その後まもなく東大寺領としての確立をみる(東大寺要録/鎌遺2787)。鎌倉期以降も売券などで田畠の所在を示す場合は引き続き平安後期以来の「矢川条」がよく用いられる。しかし,鎌倉後期にはいると,一井・長坂など条内各村の分立が進み,現在の矢川地区をさす「矢川」の用法もみられるようになる。鎌倉末期から南北朝期にかけて活動した黒田荘悪党のなかでは,円春の舅四郎,その弟因幡五郎・七郎が矢川の住人であった(東大寺文書10/大日古)。室町期にはいり,郡内の年貢960石の納入を誓約した永享12年の郡内一族等連署起請文には利真以下12名が「矢川村」の代表として署判している(村井敬義氏本東大寺古文書)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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