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簗瀬村(中世)


 平安末期~戦国期に見える村名。伊賀国名張郡のうち。簗瀬条・簗瀬郷とも。「当国猛者」といわれた藤原実遠の所領の1つ。晩年,実遠の所領経営は行き詰まるが,当村においても荒廃は避けられなかったと考えられる。甥の藤原信良に対する天喜4年2月23日の譲状案によれば,その四至は「東限高岡,南限供御河,西限河,北限剥山」である(東南院文書/平遺763)。このうち東の高岡は現在の名張市平尾山,北の剥山は蔵持北方の丘陵をさすと推定されるので,村域は現在の名張市街地から原出・蔵持一帯に及んだとみられる。まもなく領主権は実遠の負物を償うために元興寺大僧都有慶の手に渡るが,治暦2年にいたり,有慶は当村を丈部為延に宛行い,開発を命じた。当時現作田はわずかに17町2反余,残りは無数の荒野であった。また開発の条件は3か年は地利を免除し,その後は所当官物は国衙,反別1斗の加地子は「領家」(領主)へそれぞれ納め,「作手」(この場合は下級領主権)は為延の相伝とする,というものであった(東大寺文書/平遺1002)。その後領主権は有慶から慶信―覚樹―恵珍―聖慶と東大寺東南院に伝領され,一方為延の子孫も開発に基づく権限を継承する(東大寺文書/平遺1738・3732)。これ以前実遠の代にすでに黒田荘杣工の出作が行われていたが,天喜2年8月,黒田荘四至問題で東大寺と争っていた国司側が実力でもって杣工の出作田を収公した。その時没官された田地は「簗瀬」では「六丁二反大」に及び,その中の1町4反は郡司則佐の給田にあてられた(東大寺文書/平遺751)。しかし,この後も「抑御杣与件村,大河相隔往反不輙,仍件村構作田屋,因之御庄田堵等,出居彼畠候也」とあるように,杣工の出作が盛んに行われ,村内には「御杣出作名々」が数多く見られるようになる(東大寺文書/平遺1360)。それにともない,為延の主導する開発も進展をみせ,11世紀末には田畠合わせて80余町に達する(東大寺文書/平遺1710)。また寛治年間には「簗瀬保」が立てられる。後に在庁官人等はこの保について,「於件保者,祐俊朝臣之任寛治之比,始申請別符之後,偏依号寺領之由,孝清之任中長治三年,申下宣旨被停止以降,数代之間至当任,于今為国保,敢無他妨」と述べている(東大寺文書/平遺3221)。11世紀後半,東大寺封戸物が簗瀬村に便補されているので,寛治年間に立てられた保は封物便補保であったとみられる。この便補保は12世紀初頭の長治3年に国務に従わなかったため,停廃される。しかし,その後も国務対捍は続き,12世紀中葉にかけて,東大寺と国衙との間の相論と国衙側の収公(出作の停止)がくり返される。したがって,所当官物を国衙に納める「国保」として推移したという在庁官人の主張はそのまま信用することはできないであろう。12世紀後半の永万2年8月にいたり,国司庁宣により,「黒田庄出作簗瀬保」が免除される(村井敬義氏本東大寺古文書/平遺3164)。当時保司は名張郡司源俊方であったが,翌応保2年,黒田荘預所覚仁は300余人の軍兵を率いて保司俊方を追放する。この国衙勢力の牙城であった保司俊方の追放により,東大寺は保内に支配権を樹立,まもなく「簗瀬御庄」という荘号が用いられるようになる。承安2年8月日の簗瀬荘官物結解案によれば,「徴符田」が74町1反180歩,公文給や比奈知押領田などの除田を引いた定田が59町5反300歩,反別2斗の官物が賦課され,その一部は封物として東大寺に納められることになっている(東大寺文書/平遺3604)。この段階では荘園といっても,官物は封物を除いて国衙に納められていたが,承安4年12月,黒田荘出作地域の所当官物が東大寺に免除されるに及んで,東大寺は当荘を黒田荘出作内の寺領として,所当官物を国衙に弁済することを拒否,その分を三論三十講供料にあてることに決定した(東大寺文書/平遺3732)。これに対し,国衙側は「簗瀬保」は出作新荘内ではなく,国領であると主張し,相論は新たな段階にはいる(東大寺文書/平遺3709・3998)。この相論は鎌倉期に入っても続き,建仁元年3月日の在庁官人解案には「簗瀬保七十一町七段半治承以後押領之」とある(東大寺文書/鎌遺1191)。しかし,まもなく東大寺の領有が認められ,寺領として確定をみたようである(東大寺要録/鎌遺2787)。建治2年度の官物結解によれば,下司・公文・官物公文・官物定使・追捕使等の荘官が置かれていたことが知られるが,領家職は従来通り東南院家に伝領された(一誠堂待賈文書/鎌遺12614)。鎌倉後期にはいり,正安元年9月,「簗瀬郷」住人右馬允・覚栄・覚賢・蓮信らが伊勢神宮領六箇山内奈垣・比奈知両郷に乱入し,作毛を刈り取るなどの乱妨を働く事件が起こるが,このころより住人の中から悪党として活動するものも出てくる(三国地誌)。嘉暦2年6月の悪党縁者交名注進状案には伊賀房覚舜の兄乙王兵衛入道が見え,やがて初期の悪党観俊の子金王兵衛尉盛俊が悪党の張本の1人として活動するようになる(東大寺文書10/大日古)。彼らは簗瀬荘の年貢・寺役を対捍するのみならず,寺家の使者に対して刃傷・殺害を働き,追捕の対象となるが,供御人と号して贄司の挙状をとり,寺家の訴訟に対抗する動きもみせている(東大寺文書11/大日古,狩野亨吉氏蒐集文書)。南北朝期にも盛俊の東大寺に対する敵対行動は続くが,このころの簗瀬居住の悪党としては盛俊の弟帥律師八郎,公文右馬次郎,帥坊などが知られる(東大寺古文書/大日料6-6)。室町期に入り,郡内の年貢960石の納入を誓約した永享12年の郡内一族等連署起請文には「簗瀬村」の代表として,性阿弥以下25名が名を連ねている(村井敬義氏本東大寺古文書)。また,大和国人の名張郡進出にともない,東大寺の寺領支配も興福寺の権威に依存する所が大きくなり,長禄2年8月には東南院坊官永深なるものが大乗院経覚に簗瀬荘給主職の安堵をうけている(経覚私要鈔長禄2年8月24日条)。さらに,永正2年9月の東南院領当知行目録には「簗瀬庄」の名がみえ,少なくともこのころまでは東南院領として確保されていたことが知られる(薬師院文書)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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