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四日市町(近世)


 江戸期の宿場町名。三重郡のうち。四日市宿ともいう。天正3年浜田城主田原元綱を滅亡させた織田信長の臣滝川一益の支配に入る。同11年織田信雄領,天正18年豊臣秀次領,秀次の死後は氏家内膳正行広と領主が変転するが,関ケ原の戦後の慶長5年水谷九左衛門光勝の支配する幕府領となる。享保9年大和国郡山藩領となるが,享和元年再び幕府領に復し,近江国信楽【しがらき】代官多羅尾氏の支配を受け,以後明治維新を迎える。戦国期に四日市場村として発展した当地は,慶長6年徳川家康が東海道に伝馬の制を敷くと伝馬36匹を常備し,上りは亀山(元和2年から石薬師)宿,下りは桑名宿まで伝馬・歩行役を負担する宿場町四日市駅に変化してゆく。また慶長8年代官水谷光勝は北市場地内東海道の東側の竪町に陣屋を造営し(現中部西小学校敷地),行政の中心地としての機能をも果たすようになる。さらに寛永15年常備の伝馬・人足が100匹・100人と改正されると,四日市宿は伝馬役125軒・廻船役29軒を持つ宿場町・港町・陣屋のある行政町の性格を合わせ持った総合都市として発展した。このため,四日市場を構成していた南市場・北市場・縦市場や市場への西からの入口に位置した西の口,港のある洲浜は,それぞれ南町・北町・竪町(立町)・西町・浜町となり,竪町と浜町の間に発達してきた中の瀬古も中町となる。一方,天正10年本能寺の変に家康が四日市港から船で尾張国常滑に逃れたという伝承を持つ四日市湊は,文禄・慶長の役には伊勢国十三ケ浦の水主割触頭の地位にあり,四日市廻船(25隻,地子高8石余)の母港として発展し,港をもつ浜町には天和年間に浜高札も設けられ,港周辺の寄州も開拓されて北条町・蔵町が生まれ,四日市湊の前面対岸に横たわる砂州上に点在した10数軒の納屋集落も北納屋町・中納屋町・南納屋町として繁栄する。こうして当町は寛文・延宝年間頃に中心部が各町に町立てされ,以後周辺部が次第に町場化されて新町が生まれることになった。文化7年には南町・北町・竪町・西町・比丘尼町・久六町・魚町(横町)・上新町・川原町・中町・四ツ谷・八幡町・七幡町・中新町・浜町・新丁・下新町・北条町・蔵町・北納屋町・中納屋町・南納屋町(桶之町)・中南納屋町(袋町)・大南納屋町(のちたんに南納屋町)の24町からなる。村高は「文禄3年高帳」では四日市場として829石余(田畑屋敷とも64町9反余),慶長6年808石余,寛永15年782石余,寛文元年882石余,同11年989石余,延宝元年1,022石余,「元禄郷帳」1,106石余,文化3年1,130石余,「天保郷帳」1,191石余,「旧高旧領」1,195石余。初期の村高の減少は伝馬役や廻船役の負担による免除のためである。また,寛文・延宝年間以後の増大は,三滝川沿岸や海岸部の新田開発の進展による。小物成は,文禄3年網役9斗余,寛永13年鳥役銀60匁が課され,元禄3年に鳥役と網役を一本化して高12石余となる。一方,船役は延宝5年11石余で船88艘分(内訳は商船35艘分6石5斗・漁船53艘分5石余)とあり,享保元年には3石余と減免され,享保8年に定金納となる。葭草代は正徳4年から徴収される。享保9年の小物成を列記すれば,夫米6石余・船役網役定金納3石・口米12石余,浜鳥役1両余と永100文。戸口は,明暦年間約700戸,天和3年872戸・4,626人,元禄12年1,178戸,享保9年1,272戸・5,868人,享和元年1,580戸・6,444人,弘化4年1,839戸・7,461人と増加の一途をたどる(昭和5年版四日市市史)。以上のように四日市宿は大宿であったが,伝馬人足の負担も重く,宿駅問屋場の制が完備する寛永年間には定助郷15か村・高1万5,400石(助馬154疋),さらに大助郷7か村4,887石余の援助をうけたが,元禄7年定助郷・大助郷を廃止して助郷に一本化し22か村1万7,583石(助馬175疋)の援助になった。正徳4年には加宿として日永村500石・赤堀村500石が加わる。その後,助郷村は大徳6年から享保10年は25か村,延享3年27か村,宝暦10年34か村,天明5年40か村,寛政12年48か村,文政6年61か村と増加してゆく。江戸期を通じて一番本陣を北町の清水太兵衛家が勤め,ほかに北町と南町に二番本陣と脇本陣2軒があった。旅籠屋は天和3年65軒,正徳3年60軒,文化8年91軒,天保6年106軒で,東海道に面した南・北両町に集中した。享保9年の四日市町諸色明細帳によると,商家213軒(うち干鰯商52・清酒商28・魚商6・油商6・菜種商4・小間物商4・材木商2・鍋釜商2・小物商109),職人82軒(大工19・紺屋16・鍛冶屋12・桶屋13・船大工4・木挽4・表具師2・左官3・仕立屋3・指物屋3・その他3),酒造20軒(西町7・北町3・南町5・竪町1・中町3・浜町1),宿屋90軒余となっている。町行政の改革では同年,郡山藩の手で四日市町を西町・竪町・中町・浜町・上新町・中新町・下新町・新丁・納屋町の9町に大別し,それぞれ町総代を任命して月番制で行政がなされた。また文化7年に信楽代官多羅尾氏の総元締手代杉原清九郎が大改革を行い,従来の町役人を1年間休職させて,本陣の太兵衛に総取締役を兼ねさせ,村方は庄屋が,宿方は問屋が,町方は西町組・竪町組・南町組・北町組・中町組・浜町組・納屋組の7組に大別してそれぞれの町代役が町内の行政に直接あたる体制をつくった。また四日市町全体では新しく町会所を建て,毎月5日・15日の両日前記の町役人が寄り合って相談決定することになった。災害では宝永4年の大地震と津波によって中町が浸水し,また海岸部の新田が汐入荒地になり,家屋の倒壊152軒・大破損524軒にのぼった。この復旧に用した金額は家の建直しに2,842両余・修復に1,997両余と報告されている。震災は文政2年にもあり,安政元年の大地震も被害甚大で焼死者68人(北町のみ),怪我による死者86人を出し,潰家371軒(ほかに寺10と陣屋がつぶれた),火災で焼失した家62軒,半壊347軒を数えた。また,水害では万治2年・元禄9年・享保13年・明和8年と三滝川増水による洪水があり,寛政3年の大暴風雨で家屋の倒壊や破損船91艘を出している。万延元年には高潮による浸水を受け,中部以東の各町は家屋の倒壊17軒・半壊79軒・大破20軒を出している。神社には諏訪神社があり,寛政9年の「東海道名所図会」に「四日市諏訪神祠祭神都味歯八重事代主命,建御名方命建仁二年中信州諏訪上下両社をここに勧請す」とあり,毎年陰暦7月26・27日に祭礼(俗に四日市祭)が催され,陣屋前四つ辻に各町の練物が集まった。寺院では赤堀氏の援助で発展し浜田城主田原家の香華所となった曹洞宗東溟山建福寺が中心的存在で,末寺24院を持ったと伝えられている。慶応4年亀山・菰野両藩の預り,同年7月大津県,明治2年度会【わたらい】県に移管され,同4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。三重県庁は地内の陣屋に置かれた。同年,四日市・浜田・浜一色の3か村で三重郡第一区組を組織,さらに末永村を加えて第1大区1小区となる。明治5年の戸数1,960(県行政史料)。明治3年中南納屋町が公式に袋町と改称し,同7年七幡町は境町と改称。同8年稲葉町・高砂町の2町が新設される。また幕末期に四ツ谷新町が新たに成立し,魚町は竪町に含まれるようになり,文化7年の24町は明治10年頃には26町となった。同12年に四日市は2つの戸長役場に分かれ,西町・久六町・比丘尼町・川原町・北町・南町・上新町・竪町・八幡町・中町・境町・南新町で戸長堀田甚左衛門をたて,中新町・四ツ谷新町・下新町・新丁・浜町・北条町・北納屋町・蔵町・中納屋町・桶ノ町・袋町・南納屋町・稲葉町・高砂町で戸長村木新八をたてた。明治15年前記2つの戸長役場を統合して四日市西町外25か町で戸長村木新八をたて結束を強め,同17年より数か町村連合の戸長役場を設置した。この時の西町外25か町を有する四日市の面積は耕地および宅地を合わせて151町余・戸数2,185である(三重朝明郡長西久保紀林の上申書)。明治5年,光運寺にあった英語学校と浜町の寺子屋や上新町の勤有学社などを合わせて三重県下最初の四日市学校を創設し,光運寺を仮校舎とした。明治6年には近代的な港町としての四日市の基礎を開いた稲葉三右衛門らが築港に着手し,同年末に波止場・灯台を完成し,同8年には京阪四日市定期航路が開かれる。同9年伊勢暴動により旧陣屋が焼打ちを受け,高砂町を中心に人家68戸が焼失する。伊藤伝七によって始められた川島紡績所は九鬼紋七の協力を得て,明治19年浜町で三重紡績株式会社となり,のち大正3年大阪紡績株式会社を併合して東洋紡績株式会社と改称される。明治21年四日市26か町戸長役場を上新町に新築し,市制実施を計画するが,戸数3,149・人口1万5,394で,内規制限に満たず,翌22年市制町村制施行により四日市町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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