野川村(近世)

江戸期~明治22年の村名。甲賀郡のうち。はじめ幕府領,元禄10年宮川藩領となり幕末に至る。検地は慶長7年,延宝7年(野川共有文書)。村高は788石余(寛永高帳),760石余(元禄郷帳・天保郷帳),814石余(旧高旧領)。助郷は東海道土山宿に出役。元治2年の大鋸高442石余・大工高30石余。寛文9年から13年にかけて滝(現甲賀町)・池田村と立会山をめぐって山論が起こった。明治5年滋賀県に所属。同7年柑子【こうじ】村・野川村を学区とする闡明学校が開校。同13年の戸数99・人口487,うち98軒が農業で,かたわら炭焼・採薪あるいは商売をする家もあり,雑貨商1軒があった。田地62町3反・畑地8町7反(うち維新以降開拓された茶園1町1反)・山地40町6反(物産誌)。同22年甲賀郡宮村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7371932 |