100辞書・辞典一括検索

JLogos

35

山上郷(古代)


 平安末期から見える郷名。愛智【えち】郡柿御園のうち。応保年間頃,山門が柿御園に隣接する小椋荘住人の誂えた「西塔院釈迦堂後戸閼伽棚修理料椙榑」600寸のうち270寸を山上郷に置いていたところ,小椋荘に国使が入って荘内を牢籠した。そこで小椋荘民は国使に収公されることを恐れて,残る榑を柿御園にかくしたが,小椋荘が平穏に復したのち,小椋荘民紀安道は,榑を柿御園に盗み取られたとして本家に言上,紛争が起こっている(平遺4787)。その後,康安2年に六角氏頼は郷内熊原村を永源寺に寄進。高野に建立された同寺について,応永17・21年の「永源寺文書」には「近江国山上永源寺」とあり,当時高野も山上郷のうちであった。また応永10年6月14日,京極高光に対し,同国市原荘民による柿御園用水の押領停止を命じた幕府御教書には,「近衛殿政所申近江国柿御園内山上郷」と見え(広橋家文書),当時近衛家領であったことが知られる。当地は近江・伊勢を結ぶ八風【はつぷう】街道沿いに位置し,保内座商人に従属して商品の搬送と行商に従事する足子商人の所在地でもあり(今堀日吉神社文書),鎌倉期以来の六角氏の家臣小倉氏は愛知川上流と八風街道をおさえ,山上郷内各所に居館を構えた。現在の大字山上小字城之前の安養寺境内は,三方を堀に囲まれた小倉氏の居館の跡である。六角氏は定頼の代に至っても「山上惣屋」に対して人足を徴発するなど,当地の支配を継続している。また大永6年には連歌師宗長が当地を通過している(宗長日記)。その後,天正11年に至ると当地は豊臣秀吉の臣杉原家次の知行となり,同年8月1日の「杉原家次知行目録」によると,中井村・中村・うちや村・あい谷・まいの村・わなみ村・山田・高木の8か村,合計2,336石余を山上荘と総称している(浅野家文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7373041