100辞書・辞典一括検索

JLogos

34

熊野郡


中世地名を一覧する資料として,長禄3年国富兵庫助帳写の「丹後国諸庄郷保総田数帳目録」(舞鶴市史史料編)があり,室町期の諸荘・郷・保・田数について知ることができる。熊野郡の田数は632町4反44歩。内訳は,順に,元重保12町余,川上郷38町余,川上本荘107町余,川上新荘40町余,海士郷44町余,佐野郷25町余,佐野荘9町,佐野一色13町余,近末保10町余,友重保10町余,永富保16町余,為延・吉岡・竹藤三ケ保25町余,稲光保1町,為光保3町余,刑枝名(海士郷混入)8町余,鹿野荘30町余,円頓寺1町,万願寺1町,田村荘123町余,御品田46町余,久美荘62町余である。このうち,御料所が久美荘に41町余。社寺領として,八幡領(山城石清水八幡宮領か)が佐野一色・近末保・田村荘に39町余,山城長福寺領が川上本荘に26町余。また,当時の丹後守護一色義直の守護代延永左京亮直信が川上本荘に50町余,佐野四郎が元重保・海士郷・佐野郷に69町余,氏家遠江が川上郷・友重保・為延吉岡竹藤三ケ保・御品田に42町余,式部少輔が佐野郷・田村荘・御品田に41町余を領した。式部少輔は,「康正二年造内裏段銭并国役引付」に見える丹州所々段銭3貫650文の京済者一色式部少輔であり,幕府奉公衆一色政またはその父持範か。田数帳では,南北朝期には山城石清水八幡宮領であった鹿野荘が岩田肥前・浦明三郎左衛門の所領とされるなど,武家による寺社領荘園侵略の進行がうかがわれる。これより先,鎌倉期~室町期に初出を見るのは,文治4年の山城石清水八幡宮領鹿野荘(石清水文書),建久2年の長講堂領久美荘と田村荘(島田文書),建仁元年の鹿野保(猪隈関白記),永仁6年の石清水八幡宮領永富保(石清水文書),嘉暦4年の吉岡保(慶応大学所蔵文書),元弘3年の浦家荘(熊谷家文書),暦応2年の山城長福寺領河上本荘(長福寺文書)。川上新荘は丹後国田数帳が初見。南北朝期には,元弘3年5月,安芸国三入荘の熊谷氏が後醍醐天皇の綸旨を奉じて当郡に入り,浦家荘で北条氏の属城を攻めて,竹野郡・丹波郡・与謝郡に向かい,都合11か所で城郭を攻め落とした。戦国期には,丹後は明智氏・細川氏によって攻略されたが,天正8年,丹後が織田信長によって細川藤孝に宛行われ,同9年,検地の実施が命じられた。同10年,細川藤孝が丹後を平定すると,松井佐渡守康之を久美の地に配したといい(田辺旧記),藤孝の「九州道の記」天正15年4月22日条に「松井の城松倉」とある(群書)。松倉城址は旧久美浜町の西端にあって小字を古城山という(熊野郡誌)。松井康之は南禅寺聴松院玄圃霊三を請じて常喜山宗雲寺を亡父の菩提寺とした。豊臣秀吉の鳥取城攻めや朝鮮出兵における彼の働きはよく知られている。関ケ原の戦後,細川氏とともに九州へ移り,子孫は肥後八代3万石を与えられた。中世の文化財として,国重文の本願寺本堂1棟(鎌倉期)が伝存する。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7375897