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鞍馬(中世)


 鎌倉期から見える地名。愛宕郡のうち。京師から隔たった奥深い山里である鞍馬は,世を逃れた人々の隠れ住む恰好の場所であった。京都が戦乱の影響を受けた時期には,ことにその傾向が目立つ。源平争乱の時代,源義経が少年期をここに送った事実は著名で,「吾妻鏡」(治承4年10月21日条)にも「此主者,去平治二年正月,於襁褓之内逢父喪之後,依継父一条大蔵卿長成之扶持,為出家登山鞍馬,至成人之時,頻催会稽之思,手自加首服」と記されている。鹿ケ谷【ししがたに】事件によって鬼界ケ島に配流された法勝寺執行俊寛の妻子は,「鞍馬の奥に忍ばせ給」うたといい,寿永2年7月24日の夜には,源氏の攻撃で京都を支えられず,法皇・天皇を奉じて西国へ走ろうとする平氏の動きを知った後白河法皇が,「右馬頭資時計御伴にて,竊に御所を出させ給ひ鞍馬へ御幸」,人はこれを知らなかったという(平家物語)。文治元年10月には,源義経暗殺に失敗した鎌倉の刺客土佐房昌俊と郎党らが,やはり鞍馬の奥に逃げ籠ったが,ついに捕えられて討たれた(吾妻鏡,文治元年10月26日条)。西行も「世をのがれて鞍馬の奥に侍けるに,かけひ氷りて水まうでこざりけり」と詞書きして,「わりなしや氷る筧の水ゆゑに思ひすててし春の待たるる」という歌を残している(山家集)。のち南北朝の内乱を描写した「太平記」にも,観応の擾乱の頃,「月卿雲客ハ,西山・東山・吉峯・鞍馬ノ奥ナドニ逃隠レテヲハスレバ,帝城ノ九禁イツシカ……野干ノ棲ト成ニケリ」という状態であったと記し,康安元年12月,南朝方が京都を攻めた際には,「是ヲ聞テ京中ノ貴賤,財宝ヲ鞍馬・高雄ヘ持運ビ,蔀・遣戸ヲ放取ル。京白川ノ騒動ナゝメナラズ」というありさまであったという。かような性格を持つ一方,鞍馬の毘沙門天に対する信仰は中世を通じて広く普及していた。鎌倉中期成立の「古今著聞集」には,大原の良忍上人の融通念仏弘布にあたり,鞍馬の毘沙門天が現れて,念仏帳に「奉請念仏百反。我是仏法擁護者。鞍馬寺毘沙門天王也。為安護念仏結縁衆所来入也」との筆跡を残したという話を載せており,伏見宮貞成親王の「看聞御記」には,「抑鞍馬月詣今日代官参〈与次郎〉下向之時於貴船有百足,取之さんせう浹枝ニ乗之,ちとも不動,やすくとられて長途はたらかす持参,御福之条勿論,則張台之内安置,月詣信仰,預御利生之間,随喜無極」(永享9年8月20日条)とか,「抑今日鞍馬代官参,於七曲扇一本拾,其絵如意宝珠鶴等有之,寿福之御利生勿論也,弥可信可仰」(同10年正月5日条)などと見え,「蔭凉軒日録」にも,寅の日の鞍馬参詣の記事が散見する。同書長禄3年11月28日の条には,百足の瑞夢によって参詣した記事があり,先掲「看聞御記」の記事などとともに,毘沙門天の使わしめとしての百足に対する信仰が広がっていたことがうかがわれる。「親元日記」文明13年3月28日の条に「上様鞍馬御参詣,堂供養有」と見え,また近衛政家が明応元年10月20日の日記に「早旦余并右府令参詣鞍馬,鷹司前関白,浄土寺,伯卿等令同道」と記しているように(後法興院記)将軍・摂関家なども参詣しており,「鞍馬寺も上下参詣の砌也。人目しげし」(源平盛衰記第32巻)といわれるほど,貴賤をとわず詣でる人が多かったらしい。これらの人々はまた参詣と同時に鞍馬の桜や紅葉を賞翫した。「後法興院記」明応9年3月16日の条に,「是日大樹鞍馬花御覧云々,武田伊豆守申沙汰一献云々」と将軍足利義高の花見について記しているのはその一例である。鞍馬の物産としての木芽漬は,中世においても「庭訓往来」にその名が記され,また「鞍馬ずみ(炭)」も著名(宗長手記)。うどなども公事として出されている(山科家礼記,長享3年4月22日条など)。江戸期の鞍馬寺門前。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7375933