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八幡(近世)


 江戸期~明治3年の綴喜郡の広域地名。石清水八幡宮の門前に発達した門前町とその周辺の八幡宮領の村々を合わせていう。いわゆる八幡内四郷と八幡外四郷を合わせた八幡八郷をさすが,八幡宮領である下奈良村をも含めて9か村を八幡として一括している例もある(享保村名帳)。「府地誌」によれば,内四郷とは金振郷・山路郷・常盤郷・科手郷の門前町をいい,金振郷は志水町・神原町・馬場町・園町・今田町・菖蒲池町・城ノ内町・平田町の8町,山路郷は山路町・壇所町・森ノ内町・柴座町の4町,常盤郷は紺座町・田中町・家田町・高橋町・常盤町の5町,科手郷は科手町・大谷町・橋本町の3町からなっていた。しかし,この内四郷の理解については「綴喜郡誌」によると郷内は個別の字に分かれていたといい,金振郷は志水・神原・馬場・園・今田・菖蒲池・城ノ内・平谷・山本・茶畑・谷畑・的場の12字のほか幣原村・南山村・東村があったが,これらの村は志水に属していたという。山路郷は山路・壇所・柴座・森・東山路・奥之町の6字,常盤郷は「府地誌」の5町が5字となっているほかに市場を加えて6字,科手郷は「府地誌」3町の3字以外に高坊を加えた4字とほかに橋本に属する平野山村・西山村・足立寺村があったという。外四郷についても「府地誌」が美豆郷(美豆村・際目村),生津郷(生津村),川口郷(川口村),奈良郷(下奈良村)とするのに対し,「綴喜郡誌」は美豆・際目・生津・川口の4か村4郷とし,下奈良村(奈良郷)を外四郷に加えていない。いずれにしても,全域が八幡宮領であるが,その総高は,「正保村高帳」で6,657石余,「元禄郷帳」6,185石余,「享保村名帳」は6,498石余,「天保郷帳」6,560石余,「旧高旧領」は八幡荘・生津・美豆・際目・川口を無高,男山八幡宮元社領としている。八幡宮領は検地を免除された守護不入の地であるとされ,実際に江戸期の検地から除外されたため,実高はもちろん草高も外からは把握しにくかったようであるし,また朱印地を与えられた社務・所司・神宮・坊寺・神人たちのなかで売却するものがあったことも(八幡市誌),八幡宮領総高を一応に混乱させたようである。八幡宮領の3分の1にあたる二千数十石は,八幡地下人の役として重視された安居祭に従事する安居本頭神人50・脇頭神人147・安居百姓96に分け与えられていたが,これらを地域別に示すと,科手郷は本頭神人8・脇頭神人16・安居百姓12,常盤郷は本頭神人9・脇頭神人16・安居百姓11,山路郷は本頭神人17・脇頭神人44・安居百姓12,金振郷は本頭神人20・脇頭神人23・安居百姓12となっており,大部分がこの内四郷に居住していたことがわかる。そのほかでは美豆郷に脇頭神人1が確認されるほか,外四郷全体で45人程の安居百姓が見られる(八幡市誌)。寛政10年における八幡(範域は確認できない)の総戸数1,536・総人数7,829というが,その内訳は社務4家32人,門前被官42家677人,所司神官8家46人,山上坊舎41寺85人,山下寺庵140寺175人,侍神人および百姓神人が1,301家6,814人である(八幡市誌)。天保4年段階で八幡宮に冥加金を納めて営業活動を認められていた職商を見ると,綿打屋20・樽屋15・両替屋13・菓子屋8,染物屋と傘屋と鍛冶屋が各7で,そのほか糖問屋・宿屋・古道具屋・杣・萱葺・指物師などが見られるが(同前),綿打屋が多いのは近隣における綿作の盛行を示しているし,樽屋の存在は酒造業の発達と関連がある。両替屋・菓子屋・傘屋などは門前町としての発展を物語るものであろう。慶応4年5月山城地方は大洪水に襲われ宇治橋の下流で約200間の堤防が決壊し(お釜切れ),5月末には木津川左岸の生津付近で決壊(生津切れ),木津川西方八幡荘に流下し,八幡付近では約80日程水につかり,水が引かなかった。政府はさっそく治河使をおいて治水に積極的な姿勢を見せ,工事は治河使が監督,京都府・淀藩も協力,明治元年12月23日着工して明治3年1月22日に完成,総工費24万7,696両3分1朱,銭29万7,910貫830文に達し,淀で合流していた木津川を川口付近から西に向かい,橋本の方へ大きく河身を変えて左岸の生津が右岸に残り,美豆も八幡町にとって川向うになった(田辺町史)。明治元年京都府に所属。同3年八幡内四郷のうち,石清水八幡宮の門前町を形成していた部分は八幡町,残余の内四郷郷域は八幡荘となり,外四郷各村はそれぞれ同22年まで村名を維持した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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