大羅郷(古代)

奈良期~平安期に見える郷名「和名抄」摂津国住吉郡五郷の1つ「和名抄」の訓は「於保与佐美」当郷と大和川を挾んで対する位置に,河内国丹比【たじひ】郡依羅【よさみ】郷があり,「地名辞書」は当郷の分郷が依羅郷というが,古代においては,大和川の水系が現在と異なり,両郷はつづきの1つの土地であって,国郡の境が定められたため,摂津・河内両国にそれぞれ分属したものと考えられるそのため「依羅」「依網」が当郷をさすものも多い「古事記」開化天皇条に,同天皇の子である建豊波豆羅和気王が「依網の阿毘古」らの祖であると見え,「日本書紀」神功皇后摂政前紀条には,「依網吾彦男垂見」を祭の神主にしたとあるこの依網吾彦男垂見は伝説的人物の可能性があるが,いずれにしても阿毘古の同族と考えられ,依網吾彦の一族はかなり有力な豪族で古くから当郷に居住していたと推定される「続日本紀」天平勝宝2年8月16日条に「摂津国住吉郡人外従五位下依羅我孫忍麻呂」ら5人に「依羅宿禰」の姓を,「神奴意支奈,祝長月」ら53人に「依羅物忌」の姓をそれぞれ賜ったとある当地には,開化天皇を祖とする依羅吾彦一族である,「新撰姓氏録」摂津国皇別に,「日下部宿禰同祖,彦坐命之後也」と記されている「依羅宿禰」のほかに,同じく左京神別上に「依羅連,饒速日命十二世孫懐大連之後也」と見える依羅氏などが居住し,本貫としていたと考えられる(依羅郷土史)なお当郷内に「延喜式」神名帳に「摂津国住吉郡廿二座」のうちとして見える「大依羅神社」があるが(現住吉区庭井町),同社記によると,建豊波豆羅和気王が祭神の1つであり,依羅氏が神主をつとめたという(全志3)同社は,古くより皇室の崇敬が厚く,「新抄格勅符抄」所収の大同元年牒によれば,「大依羅神」に天平神護元年,摂津・備前の封18戸が充てられているまた,「続日本後紀」承和14年7月4日条には「摂津国大依羅社」を修造し官社としたことが記される「三代実録」貞観元年正月27日条によれば,「従五位下勲八等大依羅神」は従四位下に進められ,同年9月8日には「摂津国大依羅神」などの諸神に使を遣わし,風雨を祈祷したというそのほかにも大依羅神社に関する記事は同書に散見し,甘雨を祈ったり,位階・神財をおくったことが見えるさらに,延喜9年9月13日には正二位を授けられ(日本紀略),「本朝世紀」正暦5年4月27日条によれば,この日疫癘平癒を祈るため,伊勢大神宮ならびに諸社臨時奉幣の日であって「被立石清水・賀茂上下……坐⊏⊐(摂津)国大依羅,生田,長田,垂水,新屋等社々」と記され,大依羅神社の祭祀に預かる依羅一族の繁栄がうかがえるなお,当郷内には同神社のほかにも,「延喜式」神名帳に記載されている「草津大歳神社」「努能太比売命神社」があるまた「日本書紀」仁徳天皇43年条に「依網屯倉の阿弭古」が珍しい鳥を捕え,天皇に献上した旨が記され,同様の話は「日本紀略」にも見える当地付近は,皇室の狩猟場があったと思われ,依羅・吾孫の語源について,依羅はヨセアミ(寄網),吾孫はアミヒコ(網曳子)の意とする説もあるという(依羅郷土史)また,当地には皇室領である屯倉の存在がうかがえるが,「日本書紀」皇極天皇元年条などには,「河内国依網屯倉」と見えることから,屯倉は当郷内ではなく河内国丹比郡依羅郷内にあったとも考えられるしかし,大和朝廷成立以前には摂津・河内・和泉を含めた地域を,大河内国と称していたとも伝えられ,摂津・河内が混同された可能性もあり,住吉郡の当郷と丹比郡の依羅郷との郷域境界も詳細は不明そのため依網屯倉が,当郷内でないとは断定できない(同前)また「日本書紀」崇神天皇62年条に「冬十月に,依網池を造る」とあるほか,「古事記」「日本紀略」などに「依網池」の記事が散見する同池の所在地は,大依羅神社の南方約1町の大和川北堤防の下付近といわれるが(全志3),現在の大阪市住吉区苅田・庭井付近から,堺市北花田町,松原市西天美付近にまで及ぶ大池であったと推定される(松原市史)その後大和川依網池貫通図(大依羅神社所蔵)にみられるように,宝永元年の大和川付替えにより池の中心を大和川が横断するようになったと考えられるなお,現在の住吉区庭井2丁目に依羅池があり,古代の依網池の名残と思われるが詳細は不明また当地名は,歌にも詠まれ「万葉集」巻7に,柿本人麻呂の「青みづら依網の原に人も逢はぬかも石走る淡海県の物がたりせむ」という歌が見える当郷は,現在の大阪市住吉区山之内・杉本・庭井・苅田・我孫子付近一帯に比定される(地名辞書)

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7381935 |