100辞書・辞典一括検索

JLogos

51

交野郡


正保郷帳の写と考えられる承応2年3月の河内国一国村高控帳(浅尾家文書)によると,当郡の石高は2万1,073石余。その内訳は田高1万5,851石余・畑高5,139石余・葭年貢高82石余。所領構成は幕府領・諸藩領・旗本知行地・社寺領・公家領に分かれていた。なお正保年間には山城国淀藩永井氏領・旗本久貝氏知行地が大きな比重を占めていた。淀藩領は軍事上・交通上の要地であった淀川左岸沿いの村々,久貝領は山城国に至る山根街道・宇治街道に沿った村々にそれぞれ集中していた。その後の村数・石高は「元禄郷帳」では39か村・2万2,068石余,「天保郷帳」では38か村・2万3,678石余,「旧高旧領」では39か村・2万4,074石余。淀川沿いの京街道は伏見・大坂を結ぶ捷径で東海道の延長とみなされていたが,元禄7年当郡では下島・坂・宇山・郡津・小倉・渚・片鉾・田口・甲斐田・中宮・藤坂・禁野・田宮・山之上・春日・津田・茄子作【なすづくり】・倉治の18か村が近傍の茨田郡枚方【ひらかた】宿の助郷村となった。当郡は「南旱北湿」といわれ,南東部高燥地の溜池灌漑地域と北西部低湿地の河川灌漑地域とに分かれた。低湿地では米単作を余儀なくされたが,高燥地では綿・蔬菜などの商品作物の早期的導入が見られた。旗本久貝氏知行の村々は青物類自由売捌の特権を持ち,大坂の天満青物市場の支配下にはなかった。この特権は,元和5年から承応元年にかけて領主の久貝正俊が大坂町奉行をつとめ,天満青物市場の基盤整備に力を尽くした由緒によるものであった。農村工業としては酒造業・絞油業・素麺業などが展開された。当郡の酒造業は小規模ながら多数の酒造家が存在した点に特徴があった。嘉永3年を例にとると,河内国全体の酒造家65軒・酒造米高1万9,923石のうち当郡の酒造家27軒(41.5%)・酒造米高3,977石(19.6%)であった(河州酒造家取調名前帳/仲村家文書)。絞油業は18世紀末からの菜種作りの盛行を反映したもので,天保年間には水車稼6・人力稼26の合計32軒の絞油屋が存在した(摂河水車人力油屋名前帳/服部家文書)。当郡における素麺業の始まりは中世以来とも天和年間ともいわれるが,特産品となったのは寒中製造が開始された江戸中期から。天保年間販路が京都・丹波国・丹後国・近江国へと拡大され,嘉永年間には乾麺・彩線・湯餅がつくり出された。明治3年の素麺製造家は74軒(枚方市史3)。同4年廃藩置県により,当郡は堺県・西大路県に分かれたが,同年中暫定的な府県の廃合に伴ってすべて堺県に属すこととなった。同5年の村数は38か村。同7年堺県は大区小区制を施行し,当郡は茨田・讃良両郡の大部分とともに河内国第3大区となって,村々の1部は3小区に,残りは4小区に分属した。同7年島上郡磯島村が河内国第3大区4小区に編入された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7382212