木村(中世)

鎌倉期~戦国期に見える村名。摂津国東成【ひがしなり】郡のうち。摂津天王寺領。正和4年10月9日の摂津国守護使道覚請文(離宮八幡宮文書/島本町史史料編)に「爰天王寺領木村住人七郎男并得願法師等,号津料押取荏胡麻」とあるのが初見で,当村の住人が津料と称して,離宮八幡宮の大山崎油神人が同宮に備進する内殿荏胡麻油を押し取り,しかもこれを神人に返却するように命じた幕府の下知を無視するという事件が起きている。また応永4年5月26日の室町幕府管領下知状(同前)によると,当村や住吉・天王寺などの住人が勝手に荏胡麻油を販売している旨を大山崎神人が訴え,幕府は当村などに油の販売停止を命じている。下って,応永21年8月9日・同22年8月11日の守護細川満元書下や文安3年3月20日の飯尾常暹奉書(同前)でも,大山崎神人が当村以下の住人による荏胡麻油の販売抑留の旨を,再三幕府に訴えていることが見える。そもそも鎌倉期から,当村の油商人は興福寺大乗院や春日若宮への油貢納の義務を負い,大乗院符坂寄人・一乗院油寄人以外では,奈良一帯での油販売権を有する唯一の商人であった。一方,大山崎神人も鎌倉期より諸関料免除の特権を有しており,室町期にはさらに特権を拡大して荏胡麻の購入,油の販売の独占権を諸国に行使せんとした。こうした大山崎神人と当村の商人らとの抗争は,大山崎神人の特権拡大に対する抵抗であった。一方,南北朝期から室町期には当村油商人は興福寺の符坂油座とも,南都における油販売について争っている。たとえば「雑事記」文明11年9月2日条によると本座(符坂座)は,木村座衆が法華寺に油を売ることを禁じ,当村の荷を差し押えたことが見える。また同12年正月27日条によると,興福寺六方沙汰衆は,当村の座衆が南都で商売できるのは3人に限定する旨の下知を下したが,これは符坂座の企てによると見える。この木村座衆の人数の限定の問題については同日条や文明12年2月15日所収の明徳2年5月日の大乗院政所下文に詳しい。すなわち,符坂座神人や木村の寄人(この頃新座と称していた)は春日社の神木帰座の際,これに供奉するのが古くからの規式であり,後には代物を納入することになったが,木村座はこれを未納したため,明徳2年,大乗院政所は木村座商人3人の外は大和国近辺での商売を禁じ,またこの時まで木村座が川跡などに納めていた油を符坂座が納入するよう命じた。その後木村座と符坂座とは和解したが,嘉吉元年には再び対立があり,一時は木村座が奈良中の油を一手に沙汰したが,後に符坂座も復帰して文明年間に至っている。当村の座衆は文明12年2月12日条などに見えるように六方沙汰衆に申状を提出した結果,文明13年11月22日条に「符坂座衆等此間任雅意致訴訟条,太以下可然」とあるように,符坂座の画策による先の六方衆の下知は撤回されている。また法華寺における油販売についても,文明12年2月5日条によると,木村座・符坂座双方とも同寺に油を販売してよいとの六方沙汰衆の下知が下されている。なお「雑事記」中では河内木村とも見えるが,これは摂津木村の誤記と思われる。また明応2年3月,河内の畠山義就を討伐に向かった将軍足利義稙の陣立を描いた明応二年御陣図(福智院家古文書)にも「木村」が記されており,「雑事記」明応2年閏4月19日条によると,この直後に起こった細川政元のクーデターの際,政元の丹波国守護代上原元秀が当村付近に在陣したことが見える。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7383163 |