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踞尾村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。和泉国大鳥郡のうち。築尾とも書いた。古くは神野【こうの】荘に属したという。幕府領・旗本知行地・本願寺および堺十六か寺の寺領から成っていた。村高は,「鬼洞泉州志」では元禄年間頃1,743石余,「天保郷帳」1,424石余,「旧高旧領」1,878石余。天正13年7月28日の豊臣秀吉朱印状には「泉州以築尾村内弐百八拾石」と見え,当村のうち280石を本願寺に寄進している(西本願寺文書/堺市史続編1)。また秀吉は同じく220石を常楽寺,80石を念仏寺,60石を禅通寺,50石を北十万寺,40石を旭蓮社,27石を顕本寺,20石を極楽寺にそれぞれ与えている(堺市史4)。村内の寺社領としては,貞享年間頃には,西本願寺領220石のほか,常楽寺・念仏寺・南宗寺・向泉寺・禅通寺・悲田院・旭蓮社・海会寺・大安寺・顕本寺・経王寺・極楽寺・金光寺・光明院・引接寺・櫛笥本敬寺の16か寺の寺領計830石があった。このうち西本願寺分は,北村の豪農与兵衛が年貢徴収などの任にあたった。他の16か寺領については,当初特に代官を置かず寺へ直納していたが,のちには幕府代官今井氏の管理のもとに寺庵庄屋を置いて収納にあたらせた。さらに江戸後期には十六か寺領のうちでも南宗寺・常楽寺・向泉寺の3か寺領と他の13か寺領とが年貢収納事務の面などで分けられた。これは,寺領支配方に3人ずつの庄屋・年寄と2人の横目を置き,年番・月番で事務を執り,村内を6組に分けそれぞれから1人ずつの百姓惣代を選ぶ方式をとったためで,西本願寺領・3か寺領・13か寺領に三分して担当することが固定化した。このため輪番制の強化がはかられ,17か寺が年番もしくは月番で日常の行政にあたり,各寺院は毎月16日に月番寺院に集まり,村民の訴訟・願届などの審議決定をした(堺市史続編1)。一方幕府領・旗本知行地にあたる部分は,はじめ蔵入地で,文禄4年8月3日に豊臣秀吉朱印状によって460石余が小出秀政に与えられているが(堺市史続編1),うち170石が慶長年間頃旗本石河貞政の知行となり,元和3年には幕府領代官今井氏支配となった。石河氏知行分は,のち旗本喜多見氏,中坊氏の知行となり,寛文2年からは340石に加増されて大坂城代役知となった。また幕府領は,はじめ292石余であったが,検地出高などにより305石余となり,元禄2年側用人柳沢吉保知行,宝永2年からは旗本小出氏領。なお地内には市村および家原村の出作地があった。延享5年の家数は蔵入地53軒・寺領71軒。人数は,蔵入地366,うち男169・女197,寺領363,うち男174・女189(北村禎三文書)。享保21年の土屋氏領の人数は430,うち男194・女236(外山楢千代旧蔵文書)。鎮守の踞尾八幡神社は村の西北にあり,社記によれば,神功皇后が凱旋して当地を通過した時に輦を駐めた故事により,天徳年間にその旧蹟に誉田別命を祀ったのをその起源とするという。寺院に浄土真宗本派因念寺・順教寺がある。嘉永元年・安政4年に庄屋退役後の跡役をめぐって村方騒動が生じた。領主側の見立てた人物に対し百姓一同がこれに異議を唱えて再三の訴えに及んだが,領主側の意向通り押し切られた(藤井太一文書)。当村はまた,上石津村や市村とともに石津晒生産の中心地帯であった。明治2年の家数292・人数1,317(男650・女667),石高1,112石余。同8年の反別128町余。同9年の人口1,774。同14年大阪府に所属。同22年神石村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7384504