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富田荘(中世)


 平安期~戦国期に見える荘園名。摂津国島上郡のうち。応和元年6月5日の藤原師輔譲状(華頂要略/高槻市史3)に「摂津国富田荘」とあるのが初見で,子の尋禅に譲っているが,この後,康平6年5月20日に「注之」とある妙香院荘園目録(同前)に同譲状所載として「同(摂津)国富田庄〈在嶋上郡〉」が見える。次いで,「春日社記録」の文永9年7月25日条に「以衆徒使者定賢被命云,明後日〈二七日〉,摂津国トヒタノ庄ヘ,神人十五人可被差下候」とあり,この「トヒタノ庄」は同年記冒頭の見出しに「富田庄へ神人十五人可差下之由衆命事」とあることから,当荘のことと知られ,この神人の下向は文永3年の味舌荘あたりに居住した茂忠法師が神人に刃傷に及んだことと関連がありそうだが,28日条には「于今無其儀」と神人は拒否している。なお,当荘には「当寺領」などの記載がなく,また神人拒否の理由の中にも「不論私領他領」ともあり,春日社・興福寺領ではなかったと思われる(続大成)。この後,応永11年の7月13日の足利義満御判御教書(烏丸家文書/同前)では「摂津国富田しやう,れう所として知行あるべく候」として光有に宛行っているが,烏丸家には光有に該当する人物はいない。また,文明19年4月17日の室町幕府奉行人連署奉書(古証文/同前)には「御料所摂津国富田庄事」と見え,室町幕府の御料所であった当荘を一色政具に預け置いている。「親孝日記」所載の大永元年9月10日の蜷川親孝等連署奉書に「御料所摂州富田庄下代官職事,安楽坊懇望之条,被仰合候訖」と見え,下代官職に安楽坊が補任されているが,「大館常興日記」天文8年6月3日条には「御服御料所摂州富田庄致直務御公用召上候」として,直務となっている(続大成)。なお,「蔭涼軒日録」の延徳2年閏8月3日条には「慈照院領二ケ所御寄進,接州富田庄,作州江見庄」,翌年6月2日条では「接州富田庄,作州江見庄事,替地可被寄寺家之間,可有知行之由葉公一行等持之来」などと見え,一時慈照院に寄せられたが替地を後に与えられたことが知られる。ところで当地には大炊寮領の御稲田があり,「師守記」貞治3年4月21日条所載の沙弥友阿譲状によると「摂津国冨田御稲仕女職事」には鎌倉末期に証文などを買い取った貞直が妙一房に同職を渡し,さらに友阿に譲られ,それが,初若母と勘解由小路の妻に半分ずつ譲られており,この娘が死んだ後は貞直の子に譲るように記されている。この仕女職は荘官にあたるものと思われ,当御稲では大炊寮領家―預所―下司―仕女―供御人という支配が整備されており,独自の荘園的領域を成していたのではないかと推測されている(高槻市史1)。この御稲は平安末期に官田にかわって諸国に置かれ,大炊寮の支配下におかれていたが,同譲状によると供御役毎月5斗のほかに,寮役は近年芥田河一族の押領があるため免除されたとある。結局,この仕女職は安堵料を出した勘解由小路の妻に一円に安堵されて落着している。「北野神社引付」には長禄2年11月17日の請取状に「請取 社領摂州富田鵜飼瀬神田用事」とあり,3貫文を請け取っている。これに先立つ同年4月20日の榎並荘等打渡状には「北野宮寺領摂津国【……】冨田庄鵜飼瀬……任去十六日還補御判之旨,可沙汰付松林院禅親代」とあり,当荘の鵜飼瀬が北野宮寺に還補され,神用に供されていたことがわかる(東京教育大学所蔵文書)。この後も「北野社家日記」に散見されるが,明応2年8月22日条所載の同年同月15日の室町幕府奉行人連署奉書によると香川元景が北野社家代官をしながら年貢を納入しないため,神事が退転したので直務にすると守護代薬師寺元長に伝えている(纂集)。なお文明年間前後と思われる年月日未詳の帖外御文書(本照寺文書/同前)に「当所富田庄内ノ男女老少」とあり,本願寺8代法主の蓮如は真宗門徒としての心得を述べているが,当地の教行寺は文明8年10月29日の親鸞蓮如画像奥書(鷺森別院所蔵/高槻市史3)に「摂州島上郡富田常住也」とあることから,この頃創建されたものと思われる。当時は富田道場であったが蓮如の子の蓮芸が入寺してから発展した。その後,天文初年の細川晴元と一向一揆の抗争中に教行寺は焼かれるが,「証如日記」の天文5年10月20日条に「細川下知,就堺坊并富田坊再興之儀,只今到来」と見え,晴元と本願寺との和睦の後,同寺の再興が認められており,同年閏10月24日条には「就教行寺再興之儀,自富田庄内両種三荷也」とあり,再興が計られている(石山日記)。また永禄12年5月17日のルイス・フロイスの書翰(日本通信/高槻市史3)には「一向宗派のトンダジナイと称する地に着きたり。坊主の僧院なるが,同所にては短日内に生命を消耗する一種の疫病の為千人余死したるを以て,我等は僧院外の旅館に宿泊せり」とあり,寺内町として発展した繁栄ぶりをうかがわせる。天正13年9月吉日の羽柴秀勝禁制(清水家文書/同前)には「掟 富田宿久」とあり,「無座無公事」などと見られ,同月20日の羽柴秀勝家老衆連署添状(同前)には「冨田東岡宿」とあり,寺内町とあわせて富田宿久を形成していたものと思われる。なお,当地には天正元年12月日の織田信長朱印状(竜安寺文書/同前)の宛所に「〈摂州富田庄之内〉普門寺」とあるように,三好長慶と和睦した細川晴元が余生をすごし,一生を終えた普門寺がある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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