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富田(近代)


 明治22年~昭和42年の大字。はじめ富田村,大正14年富田町,昭和31年からは高槻【たかつき】市の大字。明治22年の人口3,176。富田尋常小学校は,同26年村立となる。同31年島上高等小学校富田分教場が三輪村北境内社務所で開校,同33年富田高等小学校となったが同37年廃校。改めて西ノ口町普門寺前で富田尋常小学校が高等科を併設して富田尋常高等小学校となった。昭和3年の教員数は,校長を除き,尋常科11,高等科5,生徒数は,尋常科206・高等科40・夜学32。明治40年富田農業補習学校,大正15年富田青年訓練所が創設され,第2次大戦中まで存続した。大正期に注目されるのは富田駅の開設である。明治28・43年両年の停車場設立運動が失敗したのち,大正初年に自動信号機導入により富田信号所が廃止されるのを機会に同10年頃から設置運動が再燃し,村長・地元有力者・代議士などによる委員会を設置,翌年11年設置の許可が下り,同13年設置された。この成功は,富田住民の生活意欲と政治意識を高め,翌14年の町制施行につながったといわれる。同年の世帯数737・人口3,268。さらに昭和3年新京阪鉄道(現阪急京都線)が開通し,富田駅が開設。この頃,農業は米,特に酒造原料の上質米,裏作ではビール麦などの麦を作った。また阿片の原料のケシの栽培も盛んであった。農家の戸数は297,うち自作70・小作160,牛72。そのほか盆栽花卉園芸,筒井池のコイ,柳川のフナが有名。副業は主に縄・莚・飯びつあみ。商工業としては古くから酒造を行っている家が7戸あった。同12年北端を国道171号(産業道路)が開通。第2次大戦までには新京阪鉄道沿線はほぼ宅地化し,同30年代には旧寺内町以北は市街地化した。同34年の世帯数2,466・人口1万438。同40年代に入ると南部に日本住宅公団などによる大規模住宅地が開発された。昭和32・33・34年富田町昭和台,同36年北昭和台・富田柳川町1~2丁目,同37年富田柳川町2丁目,同40年北昭和台町・西五百住【にしよすみ】町・昭和台町1~2丁目・富田町1~6丁目,同42年大畑町・富田丘町・芝生【しぼう】町1~4丁目・寿町・栄町・川添町・牧田町・西町・柳川町1~2丁目・北柳川町・南総持寺町・宮田町1丁目となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7384853