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中島(中世)


南北朝期から見える地名摂津国西成郡のうち「太平記」巻25藤井寺合戦事に「時々住吉天王寺辺へ打出々々,中島ノ在家少々焼打」とあるのが初見で(古典大系),楠木正行が北朝方足利勢の出兵を誘ったものであるその時期については,「園太暦」貞和3年8月19日・22日条から,貞和3年8月と推定され,また住吉・天王寺からの出兵とあるによって,この中島は渡辺近辺かと推定されるまた「細々要記」延文元年10月22日条(改定史籍集覧)に南朝方和田・楠木軍と北朝方仁木・佐々木軍が「中島ニ於テ両方合戦暫時京勢敗北……神崎ノ陣ヲ退散セズ」と見える中島はやや神崎寄りの地かと思われる中島の範域についてみると,貞治5年6月9日の畠山義深避状(多田院文書/大日料6-27)に「摂津国中嶋内善源寺地頭職事」と見え,大川の東岸善源寺荘(現都島区)も中島の内と呼ばれることもあったしかし一般に中島とは三国川(現神崎川)と大川(淀川の旧本流)に囲まれた地域であるすなわち嘉吉3年5月7日の細川管領家奉行人奉書案(藻井泰忠所蔵文書/吹田市史4)に「摂津国中島内柳嶋事」とある柳島は,文安4年6月6日の細川道賢寄進状案(同前)には「江口内柳島等事」とあって,三国川と大川に分かれる東北端の江口も中島の内ということになるそれより西の板加野・大道などにあった乳牛牧も,嘉吉2年4月29日の細川持賢寄進状(崇禅寺文書/同前)に「中島内乳牛牧」とあって当地の内であり,さらに淡路荘も年欠12月11日の足利義詮御教書(石清水文書6/大日古)に「摂津国中島内淡路庄事」と見え,いずれも当地のうちである西の方では文明16年8月25日の室町幕府御教書(香具波志神社文書/大日料8-16)に「御料所摂州中島内賀嶋庄」と見え,また文明2年3月15日の大内政弘宛行状案(萩藩閥閲録/大日料8-3)には「摂津国中島幣島内」とあり,三国川河口部の左岸にあった加島・御幣島も中島の内であった南では嘉吉3年4月7日の一宮左京亮成実打渡状案(藻井泰忠所蔵文書/吹田市史4)に「摂州中嶋渡辺国分寺内幸宝寺事」とあり,また寛正2年12月26日の中嶋崇禅寺領目録(崇禅寺文書/同前)に「中嶋福嶋村田畠取出分名寄帳事」とある中に,埋田・大二(大仁村)・出来島・頭成・野田村の地名が見出せるしたがって大川が河口部で西流する北岸の渡辺・福島・野田・国分寺など現在の福島区・北区・大淀区も中島の内であるなお同目録には「中島所と(当)年貢茶目録」が付されており,ここには乳牛牧・小島・渡辺国分寺・柴島南方・同北方・草苅・橋寺・宮原北荘・大仁荘・野里荘などが書上げてあるが,これらもすべて中島の内かと思われるまた江戸期の「五畿内志」西成郡の村里の項では三国川と旧中津川に囲まれた地域のうち東部を上中島,中部以西を下中島,旧中津川と大川で区切られた地域を南中島と呼んでいる当地は瀬戸内海や和泉・河内を結ぶ交通上の要所であったから,江口・乳牛牧,淡路荘・宮原荘・柴島荘・富島荘・賀島荘,幣島・河崎荘,国分寺荘,渡辺・福島荘,鷺島荘など,諸権門の領有地があり,各所に関所が設置されていた大山崎神人の諸関渡役免除を認めた明応6年11月28日の室町幕府御教書(離宮八幡宮文書/島本町史史料編)には「摂州中島中諸関渡」と見えるが,これは当地内の諸関の総称であったまた交通の要所ゆえに,南北朝内乱・応仁の乱・細川合戦,織田信長と三好氏および本願寺との合戦などの際,戦場となったそのため当地域内には江口城・柴島城・加島城・福島城などの諸城が構築されたこのうち中島城については元亀3年正月21日,在城の細川昭元を三好義継らが攻撃したのに対処して織田信長が昭元救援のために柴田勝家を出陣させたことを伝えた飯川信堅・曽我助乗宛朱印状(実相院及東寺宝菩提院文書/織田信長文書の研究上)に「中島・高屋表調儀之子細候間」と見えるしかしこの出陣の効はなく,元亀4月3月7日の細川藤孝宛織田信長書状(細川文書/大日料10-14)に「中島之儀,去廿七日ニ退城之由」とあり,細川昭元は堺に退いたことがわかるが,この中島城は淀川区の中島にあったと推定されるなお戦国期の中島の村々には浄土真宗が浸透し,地域ごとに門徒集団が結成されていた「証如日記」天文5年4月10日条(石山日記)に「中島五ケ所之衆〈海老江・野里・三番・大和田・幣島〉,従去年種々依申」とあるように彼らは地域的に結集し,本願寺と種々の交渉をもちつつかなり独自な行動をとったものと思われ,同年7月28日条では「然時,彼島衆放門徒候」と見える現在の大阪市西淀川区・東淀川区・淀川区・都島区・福島区・北区・大淀区を含む一帯に比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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