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錦部郡


正保郷帳の写と考えられる承応2年3月の河内国一国村高控帳(浅尾家文書)によると,当郡の石高は1万5,541石余。その内訳は1万2,379石余・畑高2,686石余・山年貢高475石余。所領構成は幕府領・諸藩領・旗本知行地・社寺領に分かれていた。郡内には一時期西代【にしだい】藩が存在した。すなわち,延宝7年本多忠恒が近江国膳所【ぜぜ】藩主の父康将から当郡のほか近江国高島郡・甲賀郡のうちにおいて1万石を分与されて立藩。忠恒の遺領を継いだ忠統は正徳元年西代村に居所を設けたが,享保17年伊勢国神戸【かんべ】に転封されたため廃藩となった。村数・石高は,「元禄郷帳」では49か村・1万5,783石余,「天保郷帳」では48か村・1万8,350石余,「旧高旧領」では49か村・1万8,189石余。郡内には高野街道の宿駅として三日市宿が設置され,和泉国大鳥郡堺と紀伊国紀見峠との間の人馬継立てが行われた。「毛吹草」には中世以来の銘酒である天野酒と錦部柿を載せる。山間部の村々では氷豆腐の生産が盛んで,江戸後期株仲間が結成された。また,当郡に13か村を領有していた狭山【さやま】藩は安政5年これを藩営専売とした。天保年間絞油屋は水車稼14・人力稼8の合計22軒(摂河水車人力油屋名前帳/服部家文書)。嘉永3年の酒造家は4軒(河州酒造家取調名前帳/仲村家文書)。文久3年天誅組の乱には,甲田村・新家村・向野村・長野村・鬼住村などから参加者が出た。明治4年廃藩置県により,当郡は堺県・五条県・膳所県・神戸県に分かれたが,同年中暫定的な府県の廃合に伴ってすべて堺県に属すこととなった。同5年の村数は50か村。同年中寺元村が観心寺村と合併。同7年堺県は大区小区制を施行し,当郡は河内国第1大区となって,村々は5・6小区に分属した。同8年上岩瀬・下岩瀬両村が合併して岩瀬村となり,村数は48か村となった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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