味舌荘(中世)

平安期~戦国期に見える荘園名。摂津国島下郡のうち。甘下・甘舌・真舌とも書く。仁安3年正月22日の法眼和尚田地寄進状案(勝尾寺文書/吹田市史4)に「奉施入 在摂津国味舌庄内田壱町事」とあるのが初見。また,仁安3年7月16日の妙香院僧正下文案(同前)には「慈徳寺御領味舌庄下司所」とあり,慈徳寺は藤原道長の姉の詮子の御願寺で,妙香院は道長の祖父の師輔の祈願寺で天台座主良源が住み,慈徳寺を支配していたようである。本文書によれば,妙香院僧正は当荘の佃壱町を勝尾寺仏供料として寄進し,春日社の所役などを免除している。しかし,承安5年3月30日の検校法眼房政所下文(同前)では,助真がその地を押妨したという訴えが勝尾寺からあったため,検校法眼房が慈徳寺領味舌庄に宛て,これを止めている。次いで,年月日不詳の勝尾寺住僧等解案(同前)では,御使経雲濫妨を停止するように勝尾寺住僧等が「味舌御⊏⊐本家政所」の裁きを求めているが,当荘は本家の妙香院,その下に領家の慈願寺があり,そのうち佃1町が勝尾寺のもので,さらに春日社にも所役の徴収権があり,複雑な支配関係になっていた。「御参宮雑々記」の文永2年10月条(大乗院文書/同前)では12月7日の長者殿下の春日詣での際,人夫召荘々の中に「味舌庄七人内〈一人参了〉」とある。また,「中臣祐賢記」の文永4年2月10日条(春日社記録日記2/同前)には摂津長興寺で春日社神人に対して刃傷に及んだ茂忠法師が「当寺領マシタノ庄ニ居住」との風聞があり,惣官・神人に捕えることを求め,同22日に三方神人が摂津に下り,25日には当荘で1軒を焼失したと見える。この茂忠法師は住人と一味したいわゆる悪党であり,神人らは鎮圧に際し,住人からの強い抵抗を受けている。なお,「興福寺年中行事」(大乗院文書/同前)の永仁6年6月1日条には若宮祭流鏑馬事として弘長2年沙汰次第の中に「甘舌々(庄)」が見える。ところで,嘉元3年4月頃と判断される摂籙渡荘目録の法成寺領に「摂津国……〈以材〉味舌庄 田百廿町 加地子百廿石」とあり(岐阜県史4),暦応5年3月日の摂籙渡荘目録にも法成寺領として「〈美作権守知雄〉味舌庄 田百廿町 加地子百廿石」と見える(同前)。このように当荘は加地子のみを摂関家が徴収し,以材・美作権守知雄がその給主,あるいは預所となっていた。なお,妙香院の別院の西願寺を九条良平は寛喜年中に相伝し,成恩院と改名して移し,暦仁元年には当荘などを施入した。このため当荘は成恩院領となった。貞和5年11月日の鳥居造立条々注文(勝尾寺文書/吹田市史4)には「〈味舌〉一貫文 六郎二郎入道」と見える。「東院毎日雑々記」の応永5年6月17日条(吹田市史4)によれば,当荘を興福寺の三河都維那御房に宛行っていることが知られる。「雑事記」の康正2年12月末別帳(同前)には「応永卅三年安位寺殿初度寺務之時寺領支配事」とあり,当荘は不知行と記されている。また,長禄3年2月23日条には,「春日御八講進物支配事……味舌ゝ(荘)二ゝ(前)」と見える。また,「安位寺殿御自記」の寛正2年3月25日条(大乗院文書/吹田市史4)によれば,寺領の当荘を年貢毎年17貫文で慶薗御房に仰せ付けている。「雑事記」の文明14年4月7日条(吹田市史4)に「摂津国興福寺領……味舌庄〈御米在之〉上分米一石〈通目代〉」とあり,応仁の乱以後不知行と見える。これは摂津の吹田氏・三宅氏などの国人一揆が同地を押領したためと思われる。「政覚大僧正記」に「文明19年丁未正月日……四貫文〈旧冬卅日到来云々,正月五日進之〉味舌・沢良宜両所分」とあり,「長享二年……弐貫文……味舌・沢良宜両庄」「延徳元年……九百文……味舌庄」と見える(吹田市史4)。また「後法興院雑事要録」(陽明文庫所蔵/同前)の文明11年から15年および明応2年の記事中にも当荘名が散見する。さらに「宣胤卿記」によれば明応6年には味舌・三宅2,400疋と見え(荘園志料上),「雑事記」の大永2年3月条(吹田市史4)には「寺領支配……味舌庄」と見える。なお江戸期の「摂陽群談」などには味舌村が見え,庄屋村・坪井村・上村・下村・正音寺村の5か村の通称地名として用いられた。延宝4年の摂津国郡村々高帳(関西学院史学1)では,村高2,148石余。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7386317 |