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溝杭荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。摂津国島下郡のうち。初見は貞応3年8月頃とみなされる宣陽院所領目録(島田文書/鎌遺3274)の「庁分……摂津国志宜寺〈卿二位家〉同国溝杭庄」であるが,建久3年3月日の後白河院庁下文案(大徳寺/鎌遺584)に高階栄子家の知行として「摂津国志宜寺并溝杭〈御祈願所清浄心院領〉」とすでに見え,建久2年10月日の長講堂所領注文(島田文書/鎌遺556)には「志宜寺」のみが見える。また「尊卑分脈」の溝杭資兼の項には「依外家所領相伝,住摂津国溝杭,溝杭大夫」と見え,資兼が母方の所領を相伝し,開発を進め,溝杭氏が後白河法皇の妃である高階栄子あるいはそのゆかりの者に寄進したものと考えられ,貞応3年8月までの間に長講堂領に編入されたものと思われる。なお後白河法皇の建立になる長講堂の所領は皇女の宣陽門院に譲られ,さらに後深草天皇に渡り,持明院統領となった。そして応永14年3月日の長講堂領目録写(島田文書/岐阜県史史料編4)にも「庁分……同(摂津)国溝杭庄 年貢未定」とある。また当地には大炊寮の御稲田があり,「師守記」の貞治元年12月13日条には「□(溝)杭御稲,故了源房後家申請御教書被下之」とあり,了源房後家に安堵している(纂集)。さらに,当地には隼人司領もあり,「康富記」応永27年10月29日条に「入谷入道許行向,留守也……〈隼人司領摂州〉溝杭庄年貢催促也」と見える。のみならず当庄には興福寺領もあった(大成)。「御参宮雑々記」の文永2年10月条に12月7日の春日詣でのための「人夫召庄々」の中に「溝杭庄十人内〈四人入杣了,一人加用参了〉」とあり,「文和三年記」所載の元応元年8月23日の秋季御八講初日進物支配状に「溝杭庄 二前」,元応元年11月1日の慈恩会進物支配状には「溝杭庄 一前」と見え,様々な諸役を勤めていることがわかる。そして「興福寺年中行事」の永仁6年6月1日条に「若宮祭流鏑馬使事……弘長二年沙汰次第者……目代正珍〈溝杭庄〉」とあって,弘長2年からこのような諸役を勤めていたことがわかる。室町期には給主として,応永5年6月27日の御教書案に「若狭寺主御房」と見え,「雑事記」康正2年12月末別帳にも「応永卅三年安位寺殿初度寺務支配事,……猪名・溝杭両庄良寛法眼」「永享三年同第二度分支配……溝杭庄〈懐尋〉」「康正二年寺務寺領支配分……猪名・溝杭両庄〈寛貞〉」などとそれぞれに補任され,支配が維持されていることがわかる。しかし文明11年に摂津国人等が一揆をして寺社本所領を押領したため,同14年に細川政元は寺社本所領の再興と号して摂津に出陣した。その際,尋尊は政元に寺領注文を送っており,「雑事記」文明14年4月7日条には「溝杭庄〈御米在之〉……応仁大乱以後不知行也」と見える。同じく大永2年3月23日条では寺主俊実を給主に任じており,一応の回復は果たしたと思われるが,以後は明らかでない(大乗院文書/吹田市史4)。なお「満済准后日記」永享4年6月13日条には「武田刑部少輔入道来,今朝御判拝領,摂州溝株〈ミヅクイ〉庄ト云々,此間大館上総入道知行云々」とあって,康正二年造内裏段銭并国役引付には「五貫二百五十文……大館上総入道殿〈摂州溝杭村段銭〉」ともあり(続群28),天文21年2月12日の大館晴光知行目録案(石清水文書6/大日古)にも「摂州溝杭庄」と見え,天文12年以前から同18年まで当知行と記されている。この大館氏は室町幕府の奉公衆の家系でもあり,幕府御料所であったと思われる。また嘉吉元年12月日の溝杭信幸譲状(石清水文書1/同前)によれば,大館氏は溝杭村の国衙沙汰人職・芹野名主職・妙法寺俗別当職・新堂之井司などを有しており,勢力を持っていたことが知られる。興国2年5月16日の後村上天皇綸旨(河合寺文書/大日料6-6)に「摂津国溝杭守里名」とあり,祈祷料所として河合寺寺僧等中にあてている。なお,当荘は高槻【たかつき】市の西部も含んだ。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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