明石(近世)

江戸期の城下町名。明石郡のうち。明石藩の城下町,明石町ともいう。元和4年小笠原忠政が明石新城を建設した時につくられた城下町で,赤松山のふもと,明石川の東岸にあたる。新城建設以前に大明石村・中庄村・大蔵谷村があったが,該当地域の寺や村落は城外の城下町や村に移された。町割は,本多忠刻の客臣宮本武蔵が行ったという。町の構造は,総郭の考えが取り入れられ,明石川の東岸や明石海峡沿いに土居をめぐらし,川と海の防備に巧みに活用。町を貫く西国街道を押さえるため城下町の東西の入口に大木戸と番所を置き,各々京口門・姫路口門と呼んだ。町屋地区は,当初鍛治屋町・細工町・東本町・西本町・信濃町(のちの中町)・東魚町・西魚町・材木町・東樽屋町・西樽屋町の10町から構成されていたが,のち町の発展とともに戎町・船町・新浜・東新町・西新町をも町方に組み入れ惣町15町になった。町屋の屋敷割は奥行16間と定められていた。「金波斜陽」によれば,東西1,274間1尺・南北234間半,天和2年改では1,358軒(本家732軒・借家626軒,そのうち新浜分57軒),享保6年改では1,903軒(うち本家822軒・借家1,081軒)・8,922人。15町のうち信濃町・東本町・西本町が頭町となっていた。各町は代々地子は免除されていたが,西新町のみ年貢地とされている。当初各町に2名ずつ年寄が置かれていたが,延宝6年明石総町の総代役として大年寄が新設され,頭町から有力者が選ばれた。町役人は月の3・8の日を式日とし,京口門内の北側,鍛治屋町にあった惣会所に集まった(明石市中記)。また,享保4年の明石における市店および職人は,医師25・大工100・薬種屋6・葺師16・壁塗10・船大工14・樽物師14・鍛冶屋47・樽屋53・米屋100・干鰯屋50・油屋41・醤油屋3・酢屋2・質屋41・諸問屋54・材木屋3・魚屋56・八百屋8・小間物屋80・紺屋39・畳屋11・呉服屋・古手屋21・仕立屋2・酒屋15・瓦師2・髪結24・浜蔵中使11・旅籠屋9(金波斜陽)。明石港は人工的に掘り下げた港で,西側には海運業者が多く住居・営業しており,港の東方,東新町南側には船宮と呼ばれる藩の船置場があった。明治初年旧家中町の地域から明石堀ノ内町・明石東水主町が成立し,また旧明石城下の各町は明石を冠称。明治10年代明石東新町・明石堀ノ内町・明石東水主町が合併して明石相生町,明石西樽屋町・明石東樽屋町が合併して明石樽屋町が成立。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7387246 |





