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安志荘(中世)


 平安末期~戦国期に見える荘園名。宍粟郡のうち。林田荘・室御厨とともに,播磨国における賀茂別雷神社領荘園の1つで,初期史料では3荘園を並記する。立荘に関する史料を欠き立荘年次は不詳であるが,「百練抄」によると,寛治4年朝廷は賀茂上下社に不輸田600余町を寄進し,加えて諸国に御厨を分置したと見え,このとき林田荘・室御厨とともに上社の荘園として立荘されたと推定される。寿永3年4月24日賀茂別雷社領荘園における武士の狼藉停止を命じた源頼朝下文案に列記する社領荘園の中に「播磨国 安志庄 林田庄 室・塩屋御厨」の3荘園も見える(賀茂別雷神社文書/姫路市史史料編1)。「吾妻鏡」同日条に「賀茂社領四十一所,任院庁御下文,可止武家狼藉之由有其沙汰」とあるのに当たる。翌元暦2年4月29日後白河院牒をもって,播磨国賀茂別雷社神領「安志荘・林田荘・三箇御厨」での武士の狼藉停止を命じ(同前),翌文治2年9月5日には源頼朝は院の仰せによって,安志荘・林田荘・室御厨における武士の狼藉停止を命ずる下文を発給している(同前)。「吾妻鏡」同日条に「又賀茂社別当領事,院宣到来之間,停止地頭知行,被付社家之由,令下知給」とあるのに当たる。下って,貞永2年3月13日の延暦寺政所下文案に「近則加賀国金津庄住人等日吉白山神人,播磨国安志庄住人等又補日吉山門神人寄人,致狼藉之間」とあり(貫達人氏所蔵文書/鎌遺4457),天福元年10月29日若狭国宮河荘に下した延暦寺政所下文にも「且又任加賀国金津庄并播磨国安志庄等之例,停止庄民等日吉神人之号,各召取」と見え(座田文書/福井県史資料編2),安志荘の住人の中に延暦寺やその鎮守日吉神社の寄人神人になり,本所の命に背き濫行を致し,荘内から追却されたり,召し取られて罪科に処せられた者のあったことがうかがえる。このような違乱狼藉は次第に増加熾烈となり,いわゆる悪党の出現となるが,安志荘にも著名な悪党が現れる。元亨2年9月日の東大寺領播磨国大部庄苅田狼藉悪党人交名(東大寺文書/姫路市史史料編1)および同年10月東大寺衆徒解状案(同前)によると,大部荘(小野市)坂部村の地頭代長尾備前房が語らい集めた悪党が,東大寺の管理する公田数十町の稲を苅り取ったが,集まった悪党の1人に安志荘の住人安志郷房がおり,「文保三年悪党対治御使下向之時所被搦逃之海賊張本也」と注され,また「名誉悪党人」とも呼ばれている。室町期に入り,永享4年9月3日将軍義教は賀茂別雷社家脩平の訴えていた安志荘の被服未納米ならびに正覚寺が押領している社領内の年貢について理非が明らかになったから脩平の申分によって処置するよう守護代に命じている(室町家御内書案/改定史籍集覧27)。また,文明9年故勝平の知行分について信平・継平の間に相続争いが生じたが,朝廷は「播磨国安志庄之内,神米割分小家屋敷等事」を信平の相続と認めたことを賀茂伝泰甘露寺親長は信平に伝えている(親長卿記別記/大成)。賀茂社の社家鳥居大路家は平を通字としたから,脩平・勝平・信平・継平はその一族で,安志荘は鳥居大路家が管理し,年貢など収入の一部が知行料に当てられていたので,このような争いが起きたのである。同12年4月には神官の装束新調庄役19荘園1御厨の中に「安志御庄」が見え(賀茂別雷神社文書/大日料8‐12),「蔭涼軒日録」明応2年閏4月2日条には「就竜徳院領播州安志庄直納分事,遣汲古」とある(大日本仏教全書78)。詳細は不明であるが,竜徳院は建仁寺の塔頭で,赤松氏と関係が深かった。赤松満祐が父義則の35日法要を営んだ寺で,守護赤松氏が安志荘の一部を寄進したのであろう。また,法隆寺食堂鰐口に「敬白 播州宍粟郡安志庄之内野村貴布禰社 于時文明己亥八月十日祈念諸願成就」と見え,文明己亥は11年(奈良県史16)。「安志庄之内野村」は現在の安富町長野と思われ,貴布禰社は長野の加茂神社で,元は本社にならい安志荘総社安志加茂明神の摂社として(長)野村に貴布禰社を勧請したのを,のちに加茂社としたのであろう。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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