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魚住荘(中世)


 鎌倉期~室町期に見える荘園名。明石郡のうち。伊保角とも書く。13世紀と推定される住吉神領年紀に「魚住庄」が見える(続左丞抄)。建久7年6月3日の太政官符によると,俊乗房重源は,同年4月28日に「魚住泊」修築発願の奏状を太政官に提出し,当時の魚住泊が行基建立以来再三修築されてきたにもかかわらず,浜岸が廃れて船舶の漂没や人命の喪失があとを絶たず泊の住人や近辺の僧侶の憂事となっていることを述べている。そして修築計画として山陽・南海・西海3道諸国からの運上米のうち石別1升を割いて舟瓦などの修築費用とすること,3道諸国は郡ごとに1艘,荘園は1所ごとに1艘の船舶を提供すること,和泉・摂津ほか合計10か国の港や河尻・淀津などの破船を点定するとともに山城・河内・摂津ほか合計5か国で船材用の竹木を伐採すること,さらに摂津・播磨・淡路ほか河尻在家に対して港湾修築人夫の供出に便宜を図ることなどを提案している(内閣文庫所蔵摂津国古文書/鎌遺847)。魚住泊をはじめとする中世港湾の修築が広域にわたる資材調達・労働力編成を経て遂行されたことを物語る。また建仁3年5月17日の将軍家政所下文案では鎌倉幕府も重源の申請に基づいて播磨国大部荘と「魚住泊」への守護使乱入を禁じている(内閣文庫所蔵雑古文書/同前1358)。魚住泊修築事業はその後も継続され,承久元年3月には泉涌寺開山の俊芿が「播州魚住浦築島」の勧進僧に推薦されているが,俊芿が固辞したため沙汰止みとなっている(泉涌寺不可棄法師伝/続群9上)。正応2年9月29日の伏見天皇宣旨案によると,建保年間にも僧重聖が修築を行ったが,未完に終わったので僧性海は室泊・尼崎・渡部の3か所の関において1か所につき10年を限って石別1升米を徴収し,その費用で「魚住島」を築くことが認められている(内閣文庫所蔵摂津国古文書/鎌遺17154)。室町期,応永28年2月21日のしん大夫檀那譲状に「いをすミ庄」の住人で広峰社参詣人の旦那職が見え,譲渡の対象となっている(肥塚文書)。また,文安2年9月12日,「伊保角」船籍の船が米と思われる積荷32石を積載して東大寺領兵庫北関を通関している(兵庫北関入船納帳)。同3年12月13日の行重・近助連署裁許状写にも「播州明石郡魚住庄」と見える(如意寺文書)。また,同4年11月10日の銘をもつ長坂寺鐘銘には「明石郡魚住庄」と見え,衛門(法名道宝)なる者が民間の喜捨を募って鐘を鋳している(日本古鐘銘集成)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7388305