長渚(古代)

奈良期から見える地名。摂津国河辺郡のうち。「日本書紀」履中天皇5年10月条に車持君が神祇に寄進されていた筑紫国の車持部を点検し,自らの部民としたため,履中天皇の皇妃が神の咎を受けて亡くなった。天皇は車持君に命じて「長渚崎」で祓禊をさせ,筑紫の車持部を没収して,筑紫の三神に奉ったという。4~5世紀頃の海岸線はJR東海道本線よりも北側で,尼崎市神崎・浜・次屋・潮江あたりと思われる。「万葉集」巻7の「大海に嵐な吹きそ息長鳥猪名の湊に舟泊つるまで」に見える猪名の湊は,古猪名川(猪名川の分流の1つ)の河口にできた津で,長渚崎はこのあたりと考える説もある。次いで,奈良期に勅施入された東大寺領猪名荘の南端には砂州の浜辺が形成されて長渚浜と呼ばれるようになり,漁業を主とする住民が生活していた。「東大寺要録」所収の長徳4年寺領目録によると,猪名荘は本田・野地のほかに浜250町からなっており,長渚浜はこの浜に含まれ,猪名荘に付属する空閑地であった。同年2月21日付の備前国鹿田庄梶取佐伯吉永解によれば,「摂津国長渚浜住字高先生秦押領使」なる者が武庫郡小港で座礁した摂関家領鹿田荘別当渋河幸連所有の260石船と積荷の米180石・塩20籠を水手の秦米茂と談合して奪取したとして訴えられている(三条家本北山抄裏文書/平遺374)。平安末期の東大寺諸荘文書并絵図目録に「長渚庄 渚司刀禰等申状 永延元年十一月十三日〈在家地子沙汰〉,同刀禰司地子勘文 永延元年十一月十二日」とあり(未成巻東大寺文書/平遺2157),永延元年当時,東大寺は長渚に渚司・刀禰を置いて住民から在家地子(住民の家屋敷地にかけた地子)を取っていたことが知られる。荘司でなく渚司であったことから推して,当時はまだ荘号を持たず,猪名荘の一部であったと考えられよう。平安期の長猪は現在の尼崎市長洲東通1丁目から西へ延びた長洲中通・長州本通・長洲西通の各1丁目,金楽寺1丁目,西長洲東通と西長洲本通各1丁目などJR東海道本線の南側一帯に広がった砂州を仮定することができるが,在家住人の増加に伴って一部は猪名荘から分化し,東大寺領長渚荘として独立した。猪名荘内に残された長渚浜は12世紀初頭には長洲浜と表記され,大治3年7月日付の東大寺荘園目録では「長洲浜〈在家〉」とある(東大寺文書/平遺2119)。この長洲浜は長渚荘と同一地とは考えにくく,年欠の東大寺領摂津国荘園文書目録の保元2年8月付端書にも「同庄(猪名庄)内長洲浜」とあり(東大寺文書/同前2898),応保2年5月1日付官宣旨案でも「摂津国猪名庄内長州(洲)浜等」とある(東南院文書/同前3213)。この頃,都に近い重要な港津は検非違使庁の管理するところで,長渚浜の住人たちも東大寺から課せられる屋敷地子のほか,検非違使庁役を負担していたが,庁役忌避のため自ら権勢家の散所となった。長渚散所は小一条院敦明親王に始まり,式部卿敦貞親王・二条関白家教通,次いでその女小野歓子(後冷泉皇后)へと伝領されている(内閣文庫蔵摂津国古文書/平遺1660)。ところが,皇太后宮(歓子)はこの散所を,応徳元年8月鴨御祖社(下鴨神社)の山城国栗栖郷内7町8反余と交換して,ここに鴨社領の「摂津国長渚御厨」が成立した。この御厨は田地からなる荘園ではなく,浜辺の住民を同社の寄人として奉仕させ,毎日供物の鮮魚を同社に上納させるものであった(同前,内閣文庫蔵賀茂御祖社諸国神戸記)。長洲浜は庁役・国役免除の地であったから,御厨ができると各地から漁民(網人)が流入,元永元年には正員の神人300人,付属の間人200人が居住していたという(東南院文書・東大寺文書/平遺2628)。住人は奉仕の代償として,漁業以外の水運業・交易の方面でも活躍できた。しかし,一方,鴨社の支配は住人の予想以上に強く,寛治6年7月住人らは東大寺に訴えて鴨社司にその非例雑事を停止するよう要求した。鴨社は在家を破壊して地子を取り,ひそかに四至牓示を打ったという。東大寺は四至に境の杭を打つ行為を長渚荘の田地在家・領田畠に対する押領とみなしたが(京都大学蔵東大寺文書/同前1309),鴨社の言分では長渚の住人らが鴨社の神威を盾にして海辺諸国を脅かすため,住人の取締りを行ったので,東大寺に属する在家地子や敷地を妨げていないと述べ,牓示は二条関白殿御領の時に打ち立てたものとしている(内閣文庫蔵摂津国古文書/同前1311)。その後康和2年に東大寺別当に就任した永観はもとの散所の所有者皇太后宮職に交換を解消させようと企て,康和3年12月皇太后宮職は鴨社に返還を申し入れたが,鴨社は応じず,訴訟にもちこまれた。嘉承元年5月,御厨の地は東大寺がもとのように領掌し,在家は鴨御祖社領とするという裁決が下った(同前/同前1660)。土地は東大寺に,在家は鴨社にと分割したこの裁決に東大寺は不満で,その後も大治2年11月20日付東大寺公文所勘注状では住人が他家の散所になっても,その在家田地は東大寺領であるとし,住人の毎日の供祭は認めたとしても,在家の領有は認めがたいと主張している(未成巻東大寺文書・内閣文庫蔵摂津国古文書/同前2112)。御厨の領域は史料が乏しく推定の域を出ないが,東大寺領長渚荘との牓示争論からみて,同荘の本荘でもある猪名荘の長渚が平安末期までに現在の尼崎市長洲本通・長洲中通・長洲西通・長洲東通の各1~3丁目に広く長く続いていたと思われるので,この範囲に御厨が所在したのであろう。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7393972 |





