中田村(近世)

江戸期~明治22年の村名。淡路国津名郡のうち。明治10年までは志筑を冠称。天正14年の淡路国脇坂中務知行目録(脇坂文書)に見える「しづき」の一部と思われる。慶長15年池田忠雄領,元和元年からは阿波国徳島藩領。村高は,「郷帳下書」1,063石余,「天保郷帳」1,289石余,「旧高旧領」1,873石余。「味地草」では高1,782石余,家数222。庄屋は代々喜田氏。日蓮宗妙安寺前の城山には,後花園天皇の皇子日外親王が戦火を逃れて当地に来住し,その子孫が居城したと伝える。城ケ谷・見方城・八升築・古城江・休場・土井・御門林・御所山・堀・松城・木戸内などの地名が残る。寛永4年の記録に修験養蔵坊が居住したという万福寺は,淡路西国21番札所と見える。文政10年伊賀国の人が来て,その信仰する「左近の観音」を同寺に移して祀ったことから中田佐古の地名が生じたという。中田丸尾の伊勢神社は享保13年創立といわれる。その頃牛馬の病気が流行し,農民が産土の社で占うと,天照大神を祀ればよいとの託宣で祭祀した神社。その神徳を称えて始めたのが例祭における綱渡りの獅子舞である。明治22年中田村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7394000 |