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姫路(近世)


 江戸期の城下町名。飾東郡のうち。姫路藩の城下町。羽柴秀吉は,黒田孝高の助言により姫路を西国経略の根拠地と定め,従来の姫路城を改修して天正9年三層の天守閣を有する城郭を完成し居城とした。同11年秀吉の大坂築城によって姫路城には秀吉の異父弟秀長が置かれ,同13年秀長が大和国郡山城へ転ずると,秀吉の義兄木下家定と,その子延俊が配された。秀吉が当地に入った頃から,但馬街道口に当たる野里,書写道・因幡街道口にあたる船場に町場が見られるようになる。特に英賀【あが】城落城後,当城下町整備を進める秀吉は同城下の町人の移住を奨励したことで町場の形成が促進された。天正15年の木下家定年貢米割付状(芥田文書)には川間町・いとく寺町・材木町・野里町・小姓町などの町名が見える。慶長5年関ケ原の戦に戦功のあった池田輝政が姫路藩52万石を領して入部し,同6年から8か年を要して姫路城を改修し,現存の連立式大天守閣を擁する城郭を竣工した。また,輝政によって城下町の町割も行われ,約82.5ha(25万坪余)の中曲輪に侍屋敷,約79.2ha(24万坪余)の外曲輪に町人地・武家地と寺院が設けられた。さらに城下の北方を通過していた西国街道を外曲輪内へ通し,当城下のうちで飾磨街道,生野街道と各々つながるようになり,東・西の郭外で西国街道の出入口となる地にも武家地・町人地が配された(県史4)。こうして輝政の時に町数88,家数5,360余,推定人数約3万の城下町になった(同前)。慶長6年頃の野里村図(姫路市史),元和年間頃の姫路城下図(多木文化振興会蔵)に見え,明治初年まで続く町には,威徳寺町・野里寺町・鍛冶町・鍵町・河間【こばさま】町・材木町・橋之町・上久長町・下久長町・大黒町・壱丁町・国府寺【こうでら】町・平野町・本(元)塩町・茶町・小(古)二階町・大工町・東呉服町・東二階町・中二階町・西呉服町・西二階町・本町・恵美酒町・西魚町・西塩町・坂本(元)町・福中町・柳町・小力(小利木)町・鷹師(匠)町・吉田町・竜野町・小姓町・博労町・(大)蔵前町がある。池田氏のあと,元和3年~寛永8年に在城した本多忠政のときに,全体の城郭ならびに町割が完成した。町割ラインの方向は,姫路平野に広範囲に展開する条里制を一部取り入れ,外曲輪の東の外濠線と,郭外になる西の町割の南北ラインは東に20度傾いている。このほか城の東方の外曲輪は東に10度,城の南の外曲輪は東に14度等のラインに分けられる。なお,前記のほか当城下の町には,桜町・小桜町・大名町・市橋町・清水町・案内社町・岐阜町・桐馬場町・絵図裏町・増位町・景福寺前・柿山伏・農人町・上片町・米田町・地内町・西富田町・西下片町・相生町・富田町・下片町・福中内新町・俵町・新身町・十二所前・加納町・南町・直養・下白銀町・上白銀町・竪町・綿町・中呉服町・西紺屋町・東紺屋町・亀井町・光源寺前・中魚町・伽屋町・和泉町・北条口・下寺町裏・坂田町・東魚町・京口内新町・西神屋町・神谷南裏・神谷北裏・天神町・橋元町・橋元新町(枳穀町)・鋳物師町・五軒邸・堺町・竹田町・福居町・同心町・八木町・生野町・金屋町・五郎右衛門邸・福本町・米屋町・坊主町・大野町・餌差町があった。ただし,桐馬場・絵図裏などの武家地は町を付さずに呼ぶことが多い。城下は,中曲輪以内を内山下,中曲輪以外を外山下と称し,外曲輪内を総構という(姫路城史)。また,内町・神谷・野里・船場の区分もあった。元和年間忠政がもとの二股川を改修して城下の西を南北に通る船場川ができると,河口の飾万【しかま】津から様々な物資を積む舟筏が材木町・小利木町付近の船着場まで通うようになって,物資流通の大動脈となった。舟筏を方向転換させた堀割の遺構が炭屋橋のところに残る。炭屋橋はもと付近に藩直轄の問屋があったのでお問屋橋と呼ばれ,のち炭問屋ができてからは炭問屋橋と呼ばれていた。慶安年間の城主松平氏の時,侍屋敷618軒うち内山下に325軒,外山下に293軒,足軽衆747軒,町方の町数78,家数2,475・人数2万2,125,寺院40軒ほか町役の寺として24軒(姫路市史)。寛文7年の町方の家数2,845・人数2万2,034,寺院63,宝暦5年の当城下は,町方は本家数2,919・借家数4,425,人数1万7,095,ほかに寺院68か寺,寺社人数262,侍屋敷数は郭内(内山下)290・郭外(外山下)430,組長屋800,ほかに桐馬場50など(一部城下外も含む),侍屋敷・組屋敷合計1,590(姫路城史)。宝暦5年の職業別人数は大工153・左官21・石切1・屋根屋50・藁屋根葺7・瓦師13・井戸掘1・畳屋33・鋳物師11・鍛冶88(うち刀鍛冶16)・酒屋99・旅籠屋27など(同前)。江戸期の町方の地子銀は78町(竜野町は一丁目~六丁目までを各々1町と数える)で34貫469匁余(姫路市史)。寛延2年上野国前橋から転じて姫路城主となった酒井氏の治下では,町方は大年寄7人,各町に年寄2人とされ,大年寄会所は本町にあった(姫路城史)。文化7年藩家老河合道臣によって姫路藩国産晒木綿の江戸表売捌の流通経路が確立した。これにより綿業が盛んとなり,業者による江戸積仲間は,確固たる地位を築き,明治期の姫路における紡績・電気・ガス・金融・洋品雑貨など近代商工業のパイオニアの役割を果たす。城下の産物は,姫玉ともいわれた晒木綿・晒革・革細工・藍染絞・各種鋳物・足袋などがよく知られた(市制三十年姫路市史・姫路城史)。寛延2年の大水害は,当城下における江戸期最大の自然災害で,船場川は決壊し,家屋流失161,全壊99,半壊215,溺死者337,行方不明者71に達した(市制三十年姫路市史)。明治2年版籍奉還後,姫路藩庁は城内旧御用場に設置された。同年以後姫路城は兵部省を経て陸軍省の管理下に置かれるが,明治初期には修理・保存の経済的困難のため売却することとなり,米田町神戸清一郎が23円50銭で落札したという(姫路城史)。のち清一郎は城の利用法もなく,破却にも巨費を要することからその権利を放棄したといわれる(同前)。旧藩主居館には明治7年陸軍の兵営設置まで,飾磨県庁が置かれた(同前)。明治4年の廃藩置県後,中曲輪内は官有地とされ,侍屋敷の撤去が始められ,その中の各町は同15,6年頃までに本町に合併した。なお,城下の各町は明治初年に各々姫路を冠称。同22年姫路市となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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