100辞書・辞典一括検索

JLogos

28

船上村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。明石郡のうち。林の城(のちの船上城)城主蜂須賀正勝領を経て,天正13年高山右近領,同15年豊臣氏蔵入地。慶長5年姫路藩領,元和3年からは明石藩領。村高は,「正保郷帳」739石余うち田633石・畑106石,「天保郷帳」860石余,「旧高旧領」878石余。地内の田町は高山右近が船上城下を築いた時,田を埋め立てて町としたことに由来する町名で,同城下一の町であったが,船上廃城とともに農村になったという。享保年間の「金波斜陽」では西浦辺組に属し,田町を当村の小名とする。この頃の村の規模は東西5町50間・南北平均32間,よろよろ橋(養老橋)という土橋があった。浜辺に藩主の御茶屋があり,望海亭といい,一帯は一面の松林で景勝地だった。池田氏が開いた港の跡に標石だけが残り,古波止と呼ばれ,村内を流れる川を船上川といった(采邑私記)。鎮守は山王権現(御崎神社)で船上権現とも称し,欽明天皇の頃百済国から山王がここに船で渡ってきたのでこの浜に祀ったといい,船上の地名もついたと伝承する(金波斜陽)。社領10石を持ち,祭りの前日には初穂船2隻が沖に出て,航行の船から初穂を献上させたとも伝える。寺院は,真言宗観音寺(護国寺)密蔵院がある。延喜4年観賢僧正の開基,応永年間の中興といわれ,奥之坊・東禅坊・吉祥坊・宝蔵寺・神応寺・十輪寺・坂上寺・福蔵坊の8か寺を持ち,朱印高30石(同前)。東播磨の大寺院として栄えた。当村は,田町だけでなく,船上城の城下町として栄えたが,同城が廃され,明石城が出来てからは農漁村に戻った。城跡には小さな祠が祀られ,古城大明神と呼ばれる。明治12年の田53町余・畑2町余・宅地2町余,同14年の戸数58・人口268(播磨国地種便覧)。同22年林崎村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7395976