温泉荘(中世)

平安末期~戦国期に見える荘園名。二方郡のうち。長寛3年6月日付阿闍梨聖顕寄進状に「但馬国二方郡温泉郷竹田寺木村」とある。平安末期には「和名抄」温泉郷は郷名を残したまま,国衙領の所領単位となった。郷内竹田寺木村は本領主平季盛が康治元年に私領として国司の安堵をうけ,保延5年に子息季広に譲られた。ついで季広から寄付をうけた僧聖顕は,長寛3年にこれを後白河院の蓮華王院に寄進,年貢能米100石を上納して領家職を留保することとした。同時に国司は「温泉郷」の官物雑事を免除しており,もとの聖顕私領を含む国衙領温泉郷全体が荘園化したとみられる。荘の東は射添郷境,西と北は八太郷境に接した(高山寺文書/平遺3351・3352・4811)。永万年間には当荘辰巳方牓示をめぐって射添郷と相論があり,承安年間には「温泉□(庄)四至内拾伍条参里捌坪字天谷」の帰属をめぐって八太荘と紛争したが,後白河院の裁許で当荘側の勝訴となった(同前/平遺3385,吉田黙氏所蔵文書/平遺3386・4876,吉記承安4年9月7日条)。本領主平季広は領家聖顕から地頭下司職に任じられていたが,寿永2年に木曽義仲が入京すると,これと結んで運上すべき年貢雑物を押領,荘庫を追捕して米を奪うなどの狼藉があったという(高山寺文書/平遺4166)。鎌倉期,弘安8年の但馬国大田文には蓮華王院領として「温泉庄 七拾四町六反半五分」とある。領家は民部少輔入道,地頭は武蔵国御家人奈良氏の一族奈良九郎太郎宗光・同舎弟二郎左衛門尉正員。荘田の内訳は常荒流失8町1反余・不作2町1反余・地損6反余で,見作田63町余。見作田は神田3町6反余・寺田2町8反・下司并惣追捕使給5町・公文給2町9反・定田48町1反余からなる。鎌倉期の年欠温泉郷注文案によれば見作田69町4反余(同前/鎌遺3043)。南北朝期,延文元年3月には足利尊氏方の伊達真信らが「温泉城」に発向,合戦となったという(伊達文書延文元年12月日付伊達真信軍忠状/日高町史資料編)。この温泉城は現在の温泉町湯の小字大城にある山城跡と推定される。戦国期の当荘は,永正11年12月19日付温泉荘寺木村名田写によれば増福名・光留名などの名田に編成されており,これらを北村氏・河崎氏・中村氏ら土豪が知行していたことが知られる(東大史料編纂所架蔵影写本/温泉町史資料集1)。土豪のうち北村兵庫助は永正5年に「湯(温)泉庄竹之内名田」を安堵され,また,文亀3年2月には温泉荘飯野名四分一帳・峰遠正清定友名帳を注進している(林田文書,東大史料編纂所架蔵影写本/温泉町史資料集1)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7397350 |